第345話 留守番たちのしゃぶしゃぶと、解析不能の愛情
杏子たちが南国の空の下で夕食を終えようとしていたその頃。本州の、彼女たちが「帰る場所」では、冬の夜が静かに始まろうとしていた。
玄関のチャイムが軽やかに鳴り響く。
「はいはい」と出てきた祖父は、しかし、もう驚かなかった。インターホンの画面に満面の笑みを浮かべた楓と、その隣でぺこりとお辞儀をする一華の姿を認めると、彼は、してやったりとでも言うようににやりと笑った。
「おお。待っとったよ。外は寒いじゃろう。すぐに入りなさい」
「「お邪魔します!」」
玄関を開けて、笑顔で迎える祖父。
「杏子部長から連絡があったんですか?」
「いやいや、来るという連絡は無かったけど、そう何回も驚かされてたまるかいっ。わしのこの長年の勘が告げておったのじゃ。『今宵、美しき乙女たちが、わしを訪ねてくる』と!」」
「さすが、おじいさま」
楓は、連日の訪問とあって少し慣れてきたのか、さっとリビングに向う。
一華はそのやり取りを冷静に聞きながらも、「お邪魔します」と丁寧に靴を揃えた。
リビングの扉を開けた瞬間、二人の鼻腔を昨日とはまた違う、しかし抗いがたいほどに芳醇な出汁の香りがくすぐった。
「あれ? これは……?」
「ふっふっふ。昨日のお前さんたちの『黒豚も美味しいだろうね』という呟きを聞いて、悔しくてな。わしが市場に買い出しに行ってきた」
「ええーっ!」
楓が驚きの声を上げる。祖父はこれ以上ないほどのドヤ顔だ。
「……あれ? でも今日は真映さんとつばめさんは一緒じゃないのか?」
「はい。今日、真映とつばめはソフィア先輩のお宅の方にお邪魔しているんです。ソフィア先輩のところのエリックさんも、ソフィア先輩が居なくて寂しがっているだろうから、と」
「昨日は?」
「昨日はエリックさんが学会でお留守だったので。それで今日は二手に別れて手分けしよう、ということになりまして」
「なるほどのう。……ううむ。エリックさんのところは今夜の御馳走は一体なんじゃろうなあ」
祖父が本気で知りたそうな顔をする。
「それが気になりますか?」
「うむむ……。今日、ぱみゅ子たちは旅館の豪華な懐石料理のはずじゃ。まさかエリックさんも懐石料理を用意しておるのでは……!?」
「いいじゃないですか。わたし、めちゃくちゃ楽しみです! 昨日いただいた、うめぶたと、そして今日の黒豚! 二日連続で最高のしゃぶしゃぶを食べることができるなんて! ほんとうに嬉しいです! おじいさま、素敵です!」
杏子から祖父の扱い方を完璧にレクチャーされたのだろうか。楓の見事な褒め殺しに、台所の奥で祖母がにやにやと笑っているのが見えた。
「もう下準備はほとんどできてますから。さ、二人とも座って少し待っていてちょうだい」
「あっ! おばあさま! わたし、何か手伝います!」
楓が慌てて祖母のところに駆け寄る。
「二人より三人の方が作業効率は上がります」
一華もまた顔色一つ変えずにそう言って、楓の後に続いた。
ぐつぐつと鍋の中で出汁が命を吹き込まれたかのように踊っている。
「おばあさま。杏子部長はいつもお家で何かお手伝いされているんですか?」
白菜を切りながら楓が尋ねた。
「そうねえ。あの子は今、基本的にお味噌汁を作るのが担当かしら。おじいちゃんの健康を気にして、塩分をできるだけ控える味付けを自分で研究しているみたいよ」
「……わたしも、その役やりたいです」
「ははは。じゃあ楓ちゃんに『ぱみゅ子係』の資格をあげようかのう」
食卓の準備をしていた祖父のその言葉に、楓の顔がぱっと輝いた。
「えっ、ほんとですか!? じゃあ今日から、えーと、楓の最後の一文字を取って『ぱみゅで』と呼んでください!」
「……なんだそれは」
一華が即座に切り捨てる。
「……むっ。一華、もしかしてヤキモチ焼いてる? だったら一華も『ぱみゅか』って呼んでもらう?」
「呼称の無駄な増殖はシステムの管理を煩雑にするだけです」
「今気がついたけど、引退した瑠月先輩も『ぱみゅか』候補だよ? 早く抑えとかないと、その称号取られちゃうよ? わたしはもう慌てる必要はないけどねっ!」
なぜか楓がドヤ顔をしている。
「……名称を変更しても鍋は煮えません」
表情一つ変えず冷静に告げる一華。そのあまりにも正論な指摘に、祖母はもう笑いを堪えきれなかった。
「「「いただきます!」」」
薄紅色の美しい黒豚を熱い出汁に数回しゃぶしゃぶとくぐらせて、特製のぽん酢につける。楓はその一切れを口にした瞬間、顔をこれ以上ないほどにほころばせた。
「うわあ……! これ……! この美味しさを杏子部長にも食べさせてあげたいです……!」
「楓。杏子部長は昨夜、本場の黒豚しゃぶしゃぶを現地で召し上がっています」
一華が冷静に事実を突っ込む。
「いえ! 絶対にこっちの方が美味しいです! だっておばあさまとおじいさまの愛情がたっぷりこもっているんですから!」
「うっ……!」
一華は言葉に詰まった。
「確かに現実に『愛情』という非科学的な調味料が料理の味を左右する重大な要素であることは、数多の歴史と経験則が証明しています……。論理的に反論は不可能です」
そのあまりにも真剣な分析に、祖父母は可笑しくて仕方がなかった。
祖父は鍋を見つめながら、ふっと口を開いた。
「……ぱみゅ子は鹿ちゃんと飯食っとるかなあ」
「大丈夫です、おじいさま」
一華がきっぱりと答えた。
「杏子部長はあれで意外と、かなりの量を召し上がります。朝から白米を三杯は余裕です。彼女のあの無限大とも思える精神力を支える食とは何か? これもわたしが今後研究したい重要なテーマの一つなのですが……いかんせん今手が一杯で。……悔しいです」
楓が胸を張ってそれに続けた。
「杏子部長って、お食事をされているお姿まで本当に可愛いんですよね!」
「……その事象が摂取する栄養素に影響を及ぼすことはありません」
一華がすかさず突っ込む。
「いえ、絶対に影響あります! だって見ていて心が幸せになるんですもん! 尊敬です!」
「それはむしろ見ている楓の方にある影響でしょう。……それと、今の『尊敬』の定義を一度再考した方がいいかと。少なくともそれは違います」
「もうっ! 一華っ!」
「感情的になると論理的思考力が低下するというデータがありますが?」
むくれる楓と冷静な一華。そのやり取りを祖父母はただ目を細めて笑っていた。その空気がどこまでも心地よく温かかった。
食後。祖母がデザートに、あの手作りの梅ゼリーを出すと、一華がその透き通るような琥珀色をじっと見つめた。
「おばあさま、これもお手製ですか?」
「ええ。杏子に持たせてあげたから。みんなにも同じものを、と思ってね」
「……これほど完成度の高いデザートを部長は日常的に食べている、と……。……わたしはもしかしたら注目すべき視点を間違えていたのかもしれません」
「ふふっ。一華ちゃんも毎日食べに来てもいいのよ」
「それは非常に魅力的ですが……。その権利はまず楓が行使すべきでしょう。的中率を安定させるという喫緊の課題が彼女にはありますので」
「えっ、わ、わたし、毎日食べに来ていいんですかっ!」
楓が興奮して身を乗り出す。
「ええ、いつでもいらっしゃい」
祖母は優しくそう笑った。
祖父が満足そうにお茶を注ぐ。
「いやぁ、真映さんがいなくても十分に賑やかじゃなあ。まるで光田高校弓道部の出張所じゃな」
「はいっ! 普段の部活の空気もだいたいこんな感じです!」
楓が元気に言う。
一華はお茶を一口静かに飲むと、真顔で言った。
「……真映さんが不在なことによって一定の秩序が保たれている、という気もいたしますが」
「一華っ!真映はめちゃくちゃ明るくて面白いじゃない」
楓がフォローするも。
「我が弓道部のほとんどのトラブルは真映によって齎されていますから」
「一華ってば!」
「それにしても、連日大変じゃのう。親御さんはなにか言っていないかい?」
「食費が助かるって喜んでますよ。ほんとありがとうございます」
楓が応える。
「いやいや、楽しいからいいんじゃよ。それと、二人ともご両親に、お礼の電話はイラナイって伝えてくれよ。緊張するんじゃよ」
「それはやはり儀礼という点で、欠かせないでしょう。わたしの母も恐らく単に儀礼なので、適当にあしらっておいてください」と一華。
「……でも。杏子部長、こんなに楽しいお家で、ほんとに幸せです」楓がぽつり。
「幸福は可視化できませんが、推定値はかなり高いですね」一華が静かに補足する。
祖父が笑って頷く。
「よし。じゃあ、今夜もみんなで“ぱみゅ子”の健康を祈って乾杯しよう。とびっきりの紅茶を淹れるからちょっと待っててくれよ」
「はいっ!」
「異論なしです」
杏子が居なくても、確かに“杏子の家”の夜が、ここに灯っていた。




