第344話 修学旅行 二日目 その2
仙巌園の門をくぐると潮の香りはさらに薄くなり、代わりに湿った土と松脂の清々しい香りが鼻に届いた。火山灰を薄く肩に被った石灯籠に朝の光が斜めに突き刺さる。
薩摩藩主の庭園に、杏子は「わぁ……広いお庭……」とぽかんと見とれていたが、案内の人の歴史解説は右から左。
「……なるほど。これが『借景』ってやつか」
栞代が庭園の向こうに桜島を望みながら口をすぼめた。
「なに、それ?」
「庭の背景にあの桜島ごと景色を『借りて』、自分の庭の一部にしてしまう、っていう贅沢な技や」
「へえ……。あかね、ちょっと写真撮るよ。縦と横、両方な」
澪はすぐにスマートフォンを構え、手首の角度を変えながら最短で最高の構図を探る。その癖はコート上で相手の僅かな隙を見つける時のそれとよく似ていた。
杏子はその間、大きな池の錦鯉をじっと見ていた。
水面の穏やかな揺れが弓道の的のあの白い円に似ている、と思った。風がささやくように水面を撫でると同心円の輪が静かに広がり、中心がどこか少しだけ分からなくなる──それでも人は無意識にその真ん中を目で探してしまう。
「杏子、行こっ」
まゆがその袖をそっと引いた。売店の奥から香ばしい芋せんべいの甘い匂いが漂ってくる。六人は一枚ずつそれを買って歩きながら半分こにして食べた。ぱりと歯を入れると薄くかかった砂糖が指先に白く残った。
桜島へ渡るフェリーでは、デッキに出た杏子が潮風を受けて立ち上がり、思わず弓を引く仕草をしてしまう。
「おいおい、観光客に笑われるぞ」と栞代が止めるが、杏子は「えへへ」とごまかして空を見上げる。
遥はその姿に小声で「弓道部ってホンマに弓道バカなんやな」と呆れ顔をするも、澪は「でも、かっこよかった」とぼそり。こっそり写真を撮ったことは内緒だ。
「言っとくけど、こんな弓道バカは杏子だけだから、誤解するなよ」とあかねが笑ってた。
潮の飛沫が霧のように頬に細かく散り、舌の先で塩の小さな粒が弾けた。
澪は風になびく髪を耳にかけながら空を見上げる。
「……試合会場の風よりもずっと難しいな」
「弓もね」と杏子が言った。「風はほんとにやっかいなんだけど。勇気で突破しちゃうんだよ」
「どんな勇気?」
「『風を読まない』って決める勇気。左右されると射型がぶれちゃう」
「……ほな、テニスも結局は同じやな」
遥が口角を上げた。
湯之平展望所。火山灰が薄く雪のように積もった手すりに指ですっと線を引く。灰の下から冷たい金属の感触が顔を出した。
「なあ、見て。向こうの斜面、まだ湯気出てるん見える?」
あかねが目を細める。
「うん、見える。なんだか大きな生き物の呼吸みたいだね」
まゆが呟いた。
「山が呼吸しとる間に、うちらもちゃんと吸って吐いて生きとかんとな」
栞代が胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
六人は順繰りに写真を撮り合い、最後はセルフタイマーで全員でのショット。背後の雲が一瞬だけ奇跡のようにほどけ、桜島の山肌が少しだけその姿を現したまさにその瞬間に、カシャとシャッターが落ちた。
昼食は溶岩プレートで焼く黒豚。
「あっつ──でも、うま!」
「それさっきのわたしの感想とまんま同じやん」
遥と栞代の箸が肉の上でぶつかる。
杏子はきびなごの天ぷらを一つ手に取り、光に透かすように見つめた。
「……なんだか矢みたい」
大きな鯛の煮付けや鶏飯を食べては、
「おいしい! これ、おばあちゃんにも食べさせたい!」と無邪気に感想をもらし、あかねが「杏子、修学旅行中に“おばあちゃん”何回言うつもりや」と突っ込んで笑いが広がった。
「杏子の頭にはそれしかないの?」
澪も笑う。
午後はバスで南へ。指宿温泉へ。
車内ではお菓子交換が始まり、杏子は梅ゼリーを配りながら「これ、昨日より冷えてておいしいよ」とご満悦。
テニス部コンビはトランプを取り出し、自然と部屋ごとの小さなゲーム大会に。
「負けたら温泉で牛乳一気飲みな!」とあかねが言い出して、車内は小さなカーニバル状態になった。笑わせてやるっ。そう思ったのは、栞代、あかね、遥の三人組。
指宿に着いてホテルにチェックイン。
最大の目玉は砂むし風呂。ロビーに入った瞬間、独特の硫黄の匂いが鼻の奥にふわりと昇ってくる。
「砂むし、ほんまに生き埋めにされるん?」
あかねが半分わくわく、半分こわごわ尋ねる。
「ふっ。オレは昔から砂場では最強やけどな」
栞代が意味不明に胸を張る。
「杏子も砂場には強いだろ?」
「え? どうして?」
5人は顔を見合わせた。「園児だからっ」
海沿いの砂は踏むと、冬なのにその底からじんわりと温かい。係の人の指示で専用の浴衣に着替え、砂の上に掘られた浅い穴に横たわる。
車椅子で入れないところは、あかねと栞代がまゆを両側からしっかりと支える。遥が先導し、杏子と澪が後からしっかりと見守る。
「失礼しまーす」
さらさらとスコップで砂がかけられていく。肩、腹、脚へと温かく、そしてずっしりとした砂の重みが加わっていく。
浴衣姿のまま砂に埋められていくと、杏子は「わあ……あったかい……」とすぐにうとうと。息を吐くと胸の上の砂がほんの少しだけ上下する。
「寝るな寝るな! まだ埋まったばっかや!」と栞代が砂の中で声をかける。
あかねは「わたし埋まってるってより、漬け物になった気分や!」と笑わせ、みんなで大爆笑。
「……この重さがいい」
栞代は目を閉じる。日々その肩に無意識に乗せている見えない荷物の全てが、この物理的な砂の重さに置き換わっていくようだった。
耳にはただ寄せては返す波の音だけが聞こえる。砂の無数の粒が皮膚に触れている感覚。時間が伸びて、そして縮む。
やがて「そろそろ上がりましょう」という声に、六人はまるで砂の中から"生まれ直す"かのようにゆっくりと起き上がった。
「……うわ。身体かるっ!」
「これ明日めっちゃ走れるやつや」
遥が確信に満ちた声を上げた。
ロビー横の休憩スペースには冷たい麦茶のポットと小さな塩せんべい。
「……この塩がありがたい」
遥が一枚口に放り込む。
杏子はその言葉に静かに頷いた。指先にはまだ砂のざらついた感覚が残っている。あの重さに守られて動けなかった間、心はいつもよりずっとよく動いていた。
窓の外、海は夕方の色にゆっくりと移っていく。湯気のように薄く空の端で金色が滲んでいた。
窓から見える錦江湾が朱色に染まり、杏子は「なんか……弓の的みたい」とぽつり。
栞代が「景色見てまで弓に結びつけるか」と笑いながら、みんなで浴衣の帯を直し合い、いよいよ温泉宿の夕食へ向かうのだった。
この後──午後七時の夕食。六人の尽きることのない食欲とまだ言い足りないたくさんの冗談は、そこでまた一つの同じ鍋の湯気になっていくのだろう。
今はただ、砂に一度預けた身体の重さを、ゆっくりと取り戻すまで。六人はその短い無言の時間を楽しんでいた。




