第343話 修学旅行二日目 その1
修学旅行の二日目の朝は、ひそやかな囁き声から始まった。
まだ部屋の電気がつく前。窓の外がようやく白み始めた頃。布団の中に小さなテントのように潜り込んだ杏子が、スマートフォンを耳に押し当て、小声で囁いている。
「……うん。おじいちゃん、ちゃんと起きた? 今日もちゃんとお散歩するんだよ」
受話器の向こうから眠そうな祖父の声が聞こえたかと思うと、すぐにしっかりとした祖母の声がそれに割り込んだ。
『杏子ちゃん、大丈夫よ。わたしがちゃんと引っ張ってつれていくから』
「おばあちゃんっ!」
思わず杏子の声がぱっと弾む。しまった、と彼女は慌てて舌の先でその声にブレーキをかけた。
「じゃ、じゃあ、また。切るね! 夜、また電話するから!」
早口でそう締めくくり、通話を切った。
そして、恐る恐る布団から顔を出すと──薄暗い中に、にやにやとこちらを見つめる五対、十の瞳があった。六連星の完璧な包囲網。
「……あ、あの……ごめんなさい。起こしちゃった?」
杏子の頬が朝焼けのようにじわりと赤くなる。
「いや、もう起きる時間やから全然問題ないんやけど」
遥が肩で笑いをこらえながら言った。
「なるほどな。弓道部の合宿は目覚まし時計いらんな」
「オレは同室やから慣れてるんやけど。あかねとまゆは初めて知ったやろ。杏子のおばあちゃんセンサーのすごさ」
栞代が自分の枕をぽんと叩く。
「いやあ、こんな役得があったとはなあ。……でもうちのまゆもめっちゃきっちりしてるから助かるわ」
あかねがまゆに向き合う。
「うん。起床五分前にちゃんと起きてるよね」
まゆはすでに長い髪を手早くまとめ終え、自分のタオルを綺麗に畳んでいた。
やがてそれぞれが背中に張り付いた眠気を払い落とすように、洗面台の冷たい水で顔を洗い歯を磨く。窓の外では薄い雲の切れ間から柔らかな朝日が滲み出し、それまでただの灰色の影だった桜島の輪郭が荘厳な銀色へとその姿を変えていくところだった。
朝食の時間は喧騒と美味しい匂いで満ちていた。広々とした食堂はコーヒーの香ばしい香りと、じゅうじゅうと焼ける魚の匂いでいっぱいだ。
「お、さつま揚げあるやん!」
あかねがトングをカチカチと鳴らす。
「こっち『鶏飯のスープ』だって。ご飯にかけて食べるやつみたい」
澪が料理札を読み上げると、遥が「うわ、これ試合の前の日に食ったら絶対に美味すぎて調整失敗するやつや」と真面目な顔で唸った。
杏子は湯気の立つ熱い味噌汁を手に取り、そっと鼻を近づける。
「……わたし、朝のこのお味噌汁の匂い大好き」
「オレはパンとごはんのハイブリッド派」
栞代はそう言って炊き立てのご飯の上に黒豚味噌をちょこんと乗せて一口、そして、バターを塗ったトーストを豪快にかじる。
「炭水化物は決して裏切らん」
「身体に悪いはずやのになんで太らん」
あかねが笑う。
誰もが自分の朝食に夢中になる中、まゆだけがまるで合宿中のマネージャーのように六人分の小皿や飲み物を最も効率の良い配置に並べ替え、テーブルの上を瞬く間に整えていった。そのあまりにも見事な手際にテニス部の二人が目を丸くする。
「……なあまゆ。テニス部にこん? 車椅子テニス、日本めっちゃ強いんやで」
「弓道部の合宿でもいつもこんな感じなん?」
「まあ、これにもっとゴツいクーラーボックスが三つくらい増えるけどね」
まゆはそう言って悪戯っぽく笑った。
朝の口数は少なめだ。それぞれの咀嚼のリズムだけが不思議と揃っていき、身体のエンジンにゆっくりと火が入っていく感覚が一人、また一人と伝染していった。
出発したバスの窓ガラスは手のひらで曇らせると、すぐにまた元の透明に戻るくらいの心地よい冷たさだった。錦江湾の穏やかな藍色の海の向こうに桜島がどっしりと鎮座している。
杏子は一華からの練習報告に目を通している。的中率は普段の練習とさほど変わらない、終了間際に向って上昇するのはいつものことだ。だが。
「杏子、どした? 顔が暗いぞ」
栞代が声をかける。
「うん。こうして離れてると、いつもよりなんか気になって。」
「つばめ?」
「うん。この機会に,一華にちょっと集中して撮影してもらおうと思って、今連絡してるとこなんだ」
「コーチはなんて言ってた?」
「燃え尽き症候群だろって。だから少し時間を見ようって」
「そうか。つぐみに勝ったから目標を失ってるんだろうな。コーチの放任主義って、良いのか悪いのか。技術に関しては間違いないけど」
「うん。だから、つばめは技術はしっかりしてるから、そこじゃないんだよね。やっぱり気持ちが大事だってほんとによく分かるよ」
「そうだな。そこが一番大事で難しいもんな」
「むしろ技術的、射型が崩れてる、方が修正しやすいかも」
「真映みたいに?」
「真映は元気すぎて安定しないよね。でも爆発力はすごいよ」
「それが続けばなあ」
栞代は、いつもの真映の言動を思い出して苦笑していた。
「でも杏子、悪かったな」
「え? 何が?」
「いや、今オレ自分のことで手一杯だからあんまりそういう相談乗ってやれなくて」
「ううん、そんなこと。わたし部長だもん」
「ま、話するだけでも違うだろ。また前みたいにいろいろと話してくれよ」
「うん、ありがと」
「おいおい」遥が席までやってくる。
「お前らなあ。もっと旅行に集中せんかいっ」
「そだな、杏子、楽しまなきゃ」
「うん、そうだねっ」
ま、杏子から弓道のことを追い出すのは無理だけど、せっかくの修学旅行。みんなが杏子に楽しんで貰おうと頑張ったからな。
楽しんで、杏子。




