第341話 旅館の夜と、素引き
夕食を終えて部屋に戻ると、修学旅行特有の高揚感が六人の間に漂っていた。シンプルな洋室には華美な装飾は一切なく、修学旅行専用の宿らしい機能的な造りだったが、それがかえって彼女たちの自然な笑い声を心地よく響かせていた。
西郷隆盛像での記念撮影、維新ふるさと館での見学、そして天文館アーケードでの自由昼食。一日を通して鹿児島の歴史と文化に触れた充実感が、まだ頬に残る興奮として宿っている。
杏子はベッドの端に腰を下ろし、ふとスマホを手に取った。画面を点けると、いくつかの着信とメッセージが表示されている。真映、楓、つばめ、一華——弓道部の一年生たちからだった。
最初に目に飛び込んできたのは、真映からの相変わらず時代がかった報告だった。
『ご隠居の監視、および、おもてなし任務、つつがなく完了いたしました!』
杏子は思わず小さく吹き出した。続いて楓からのメッセージが、感動が伝わってくるような丁寧な文章で綴られている。
『杏子部長のお家でいただいた、うめぶたのしゃぶしゃぶ、本当に、美味しかったです!』
その他、一華とつばめからも、それぞれ今日の出来事を伝える温かい言葉が並んでいた。一華らしい几帳面な報告と、つばめの控えめながらも心のこもった感想。
(……みんな、ちゃんとおじいちゃんのこと、楽しませてくれたんだな)
杏子は、その一つ一つのメッセージに胸を温かくした。祖父が一人で寂しい思いをしているのではないかと心配していたが、後輩たちのおかげで、少しは気が紛れたことだろう。
「杏子、どうしたの?」
あかねが、車椅子に座ったまゆを気遣いながら振り返った。
「真映たちから連絡が来てたの」
杏子は軽やかに答えると、スマホを置いて立ち上がった。
「おじいちゃんに電話してくる」
部屋を出て廊下に向かう。学校からの指導で、電話は部屋か専用のスペースでという決まりがあった。廊下と繋がった小さな空間は、以前公衆電話が置かれていた場所で、間接照明がほのかに足元を照らしている。
杏子は祖父の番号を押した。できるだけ離れている時は毎日電話をする、それが二人の間の約束だった。
コール音が二回鳴ったところで、電話の向こうから弾んだ声が響いた。
「おー、ぱみゅ子〜〜〜。どうじゃ? イジメられてないか? 栞代とくっついて離れるんじゃないぞ」
全ての言葉に「嬉しい」というルビが振られているような、喜びが爆発している声だった。杏子は思わず頬を緩ませる。
「もー、おじいちゃん、苛める人なんて居ないよ。あかねとまゆ、そしてテニス部の岸本遥さんと宮下澪さんもすごく楽しくて優しい人たちだよ」
「そかそか。黒豚しゃぶしゃぶはおいしかったか?」
「うん、すっごくおいしかったよ。うめぶたもおいしかったってみんな言ってたよ。おじいちゃん、みんなに御馳走してくれてありがとう」
「いやいや、ぱみゅ子も気をつかわせて悪いな。楽しかったよ。お、まてまて、ちょっと変わるな」
そう言って、祖父は祖母と電話を変わってくれた。
「杏子ちゃん」
祖母の優しい声が耳に届いた瞬間、杏子の目がいきなり輝いた。まるで幼子のようにキラキラと光っている。
「おばあちゃん」
丁度そのとき、栞代が班長会議に出席するために部屋から出てきた。電話をしている杏子の表情を見た栞代は、その輝くような笑顔を見て、小さい声で尋ねた。
「杏子、今おばあちゃんと話してるだろ?」
杏子は大きな声で「うんっ」と返事をし、その声は廊下に響いた。
そしてその声は、横で電話の様子を見守っている祖父にも届いたのだろう。電話の向こうから、祖父の笑い声が聞こえてきた。
「もうわしはいいからな」
そう言って、祖父はお風呂へ向かったようだ。杏子は祖母との会話を楽しみ、今日一日の出来事を報告した。祖母の声を聞いているだけで、心の奥底から温かい気持ちが湧き上がってくる。
電話が終わって部屋に戻った杏子を見て、遥が興味深そうに声をかけた。
「おい、杏子、男に電話してたんか?」
杏子は、この世の幸せを一身に浴びたような、幸せそうな顔をしている。
あかねとまゆが笑いながら答える。
「遥、杏子のこの顔はおばあちゃんと話したんだよ」
「え? 噂はほんとだったんだなあ。その嬉しそうな顔。わたし、信じられなかったけどな。母親とか父親とか、うるさいだけだけだからなあ」
杏子は首をかしげて尋ねた。
「おじいさんおばあさんは?」
「うん。確かにじいちゃんばあちゃんは、両親よりはよっぽど優しいし、かわいいよなあ。わたしも杏子みたいに、祖父母と暮らしたいよ」
遥が妙に真剣に言うので、なにか可笑しかった。友人たちは杏子の家庭事情を特に深刻に捉えることもなく、ごく自然に受け止めている。そこに同情的な気持ちや特別な共感があるわけでもなく、ただそういうこともあるのだと受け止めていた。
「まゆ、大浴場に行く?」
あかねが気遣うように尋ねる。
「うーん。今日は辞めとく。明日いこっか」
「うん。そしたら、わたしたち、先に入った方がいいかな? あとにしよっか?」
遥と澪は「どっちでもいいけど。いっそみんなで入りたいところだけど、ここの個室の風呂はさすがにみんなは無理か」と相談している。
「よし、わたしら大浴場に行ってくるから、まゆたちはゆっくり入っときなよ。明日は一緒にいこな」
そう言って、遥と澪は大浴場の方に向かった。
「じゃ、先に入るわ」
そう言って、あかねは用意をして、まゆと一緒にお風呂に向かった。あかねの世話好きな性格が、まゆへの自然な気遣いとなって表れている。
「手伝うことがあったら言ってね」
杏子は一人残された形になったが、すぐに栞代が帰って来た。
「お、みんなお風呂?」
「うん。部屋に誰も居なくなるのもマズイから、栞代を待ってたんだ」
「ま、そだな」
「班長会議はどうだった?」
「どうだったって、明日の予定の確認だけ。何のためにすんだろな、これ?」
「なにかあったら大変だもんね」
そうして、二人はこの時間を利用して、素引きをすることにした。栞代はゴム弓を持ってきている。
杏子は射法八節の確認を行い、栞代は射型変更に取り組むための筋力強化を兼ねている。杏子は淡々と栞代の姿勢をチェックし、的確なアドバイスを送る。
「栞代、大分慣れてきたね」
「まあな。流れは変わるけど、最後に辿りつく場所は同じだからな」
「旅行から帰ったら、的前に立てそうだね」
「おお」
二人にとってはいつものお決まりの練習風景で、特に感情の抑揚があるわけではない。互いにチェックし、感想を言い合う程度の、日常的なやり取りだった。
しばらくして遥と澪が帰って来た。迎えた栞代と杏子がじんわりと汗をかいているのを見る。
「あれ、お前ら汗かいてるやん。風呂上がり?」
そう言って、遥がゴム弓を見つけると目を丸くした。
「お前ら、これで練習してたんか?」
「おもちゃみたいだけど、結構役に立つんだよ、これ」
栞代は軽く答えるが、遥と澪は呆れつつも何か思うところがあるようだった。
お風呂からあかねとまゆが出てくる。
「ゆっくり入れた?」
「ああ、ありがと。交代しよ」
そう言って、杏子と栞代がお風呂に向かった。
二人がお風呂に行ったあと、遥があかねに聞いた。
「あの二人、ゴムで練習してたみたいだけど、これ、毎晩やってるのかな?」
「あいつらならやってるかもな。話したことはないけど。わたしも、ゴム弓はかさばらないから一応持ってはきてるよ」
「結構かさばってるけど」
「まあ、弓ってめっちゃばかでかいから比べたらな。弓は、さすがに持ち歩けないけど、それに比べたら楽勝だもん。テニスラケットも、さすがに旅行には持ってこれないよな。てか、ギリギリか?」
「いや、持ってこようと思えばできるけど、やっぱりボールとコートが必要だからな。初心者なら巣振りも有効だろうけど」
「そうだな。競技の性格にもよるよな」
「いや、さっきちょっとテニスと比較して、弓は己との戦いだって言ってたけど、こういうところもそうなんだなあ」
遥と澪が頷きあった。
あかねが振り返る。
「栞代は練習オンリーだろうけど、杏子の場合はお守りを兼ねているからなあ」
「お守り?」
「遥と澪なら分かると思うけど、杏子、幼稚園児だろ?」
「いや、そこまで話したことないけど、いつもは気配消してるからさ。だけど、澪も普段は大人しいけど、コートじゃ別人やで」
「そんな感じかな。普段はめちゃくちゃ気が弱いというか、緊張しがちだけど、弓を握ったら落ち着くんだ。的前に立つ杏子はすごいぜ。普段からは想像できないと思う」
「一度見たいな」
「明後日、鳴弦館高校の道場に行く手筈になってる。見に来るか?」
今まで黙って聞いていた澪が先に応えた。
「うん、是非」
「観光はいいのか?」
「いや、こっちの方が絶対見応えありそう」
夜が更けていく中で、六人の友情は静かに深まっていく。杏子の心の中には、祖父母への愛情と、後輩たちへの感謝、そして今この瞬間を共に過ごす友人たちへの温かな気持ちが満ちていた。
修学旅行という特別な時間の中で、それぞれが持つ個性や背景が自然に溶け合い、新しい絆を紡いでいく。窓の外には鹿児島の夜が静かに流れ、この部屋には六人の少女たちの穏やかな時間が続いていた。




