第337話 南国の空、テニスと弓道と黒豚と
空港の、だだっ広く、どこか非現実的な空間。微かに漂うジェット燃料の匂いと、あちこちのカフェから漏れ聞こえてくる、香ばしいコーヒーのアロマ。規則正しく響くアナウンス。その全てが、これから始まる旅への期待を否が応でも高めていた。
手続きを済ませ、搭乗ゲート前の硬いベンチに腰を下ろした一行の元に、光田高校に残してきた仲間からの、最初の便りが届いた。一華からの、グループLINEへの投稿だった。
〈【定時報告】早朝練習、残留組、全員参加。楓、真映、つばめも、時間通りに来ました。……ただし、私個人は、今朝方、午前三時半に家を出ようとしたところ、両親に『家出』と勘違いされ、一悶着あり、中田道場へ行くことができませんでした。痛恨の極みです。つきましては、今後、このような事態を避けるため、前日からの部長宅への宿泊許可を、ここに申請します。杏子部長~~〉
その真剣なメッセージの後には、涙を流すキャラクターのスタンプが、これでもかと連打されていた。
杏子は、スマホの画面を見つめて、思わず、ふふっと笑みをこぼす。
「もう、一華、真面目すぎるんだから」
「いや、あれは、真面目っていうか……もはや、執念、だな」
隣から画面を覗き込んだ栞代が、呆れたように肩をすくめた。
「そもそも、朝の三時半から起きて練習って、あんたら二人の方が、よっぽど、まともやないわ」
あかねが、心底呆れたようにそう言った。
やがて、それぞれが持ち寄った朝食を広げ始める。杏子が、祖母が持たせてくれた包みをほどくと、湯気はもうとっくに消えているのに、焼き海苔の磯の香りだけは、ふわりと、豊かに立ち上った。
「おにぎり、梅と昆布。よかったら、半分こ、しよ」
「あ、ありがとう、杏子。わたし、ツナサンドあるよ。あと、ラムネ味のグミもある」
まゆが、小さなジップロックの袋を広げる。
「オレは、朝は、断然、炭水化物派」
栞代は、そう言いながら、米粒一つこぼすまいと、指で形を整えてから、豪快に、おにぎりを齧る。
あかねは、サンドイッチを一口で半分ほど食べてしまうタイプだ。パンの甘みと、ピリッとしたマスタードの刺激が、まだ、ぼんやりとした頭を、しゃっきりと起こしてくれる。
小柄な機体が、滑走路を離れる。座席に深く身体を預けると、機内特有の、プラスチックと、空調の乾いた匂いが鼻を通り抜けていく。離陸前の、ゴゴゴ、という低い振動。そして、ふわりと身体が浮き上がる、あの不思議な感覚。
外の風景が、あっという間に、ミニチュアのように小さくなっていく。
朝早くから弓を引いてきた杏子と栞代は、ほとんど同時に、こくり、と、眠りに落ちていた。その安らかな寝顔を見て、あかねとまゆも、つられたように、目を閉じる。遥と澪も、「じゃあ、うちらも、おやすみ〜」と笑って、すぐに、静かな寝息を立て始めた。
結果、六人は、ほぼ同時に、穏やかな眠りの世界へと、旅立っていった。
鹿児島空港に到着。
窓の外に広がる、雄大な桜島の、そのどっしりとした山影に、全員が「おおーっ!」と、声を上げた。タラップを降り立つと、関西の肌を刺すような冬の空気とは、明らかに違う、一段階、温かい空気が彼女たちを包み込んだ。遠くで聞き慣れない鳥の声がする。南国の太陽に熱せられたアスファルトの乾いた匂い。
バスに乗り込むと、車窓の風景は、一変する。火山灰を含む、少しざらついた質感の、灰色の屋根瓦。山の、深く鋭い切り込み。そして、その向こうに、時折、薄い噴煙を上げる、桜島。
「うわ、はやく、黒豚、食べたい」
あかねが、素直な欲望を口にすると、まゆが、「あかね、そればっかり」と、笑って制す。
市内の、西郷隆盛像の前。冬の柔らかな光を浴びて、その巨大なブロンズの肩が重たく、鈍く光っている。
「……でっか」
遥が、素直な感嘆を、洩らした。
「西郷さんって、ほんまに、あの犬、連れてたんかなあ?」
「ていうか、この銅像の顔、本物とは、全然違うらしいで!」
そんな声が、あちこちから、沸いてくる。
六人は、揃って記念撮影。自撮り棒を伸ばした澪の腕がしなり、画面の端に、通りの向こうの、柑橘類の露店が映り込む。風に乗って、柚子の、爽やかな香りが、ふわりと、漂ってきた。
その後、維新ふるさと館で歴史の展示を見学。暖房の効いた、温かい空気。ガイドの、落ち着いた声。そして、古い紙の独特の匂い。歴女モードに入ったあかねが、「見て、これ! 坂本龍馬の手紙やって! この、崩した字が、たまらん!全く読めん!」と、熱弁を始める。
天文館アーケードでの、班ごとの昼食タイム。アーケードの高い天井から、柔らかな光が差し込み、すれ違う人々の笑い声が反響している。どこかの店から漂ってくる、香ばしい、甘辛いタレの匂い。
六人は、黒豚とんかつの老舗の暖簾の前で足を止め、目配せで心を決めた。
「なあ、栞代」
席に着き、遥が、話を振った。「弓道部は、今年こそ、全国優勝、できそうなんか?」
「ああ、任せとけ。今年は絶対に優勝する。……お前らこそ、どうなんだよ、テニス部は」
「ま、澪と一緒なら、なんとかなるだろ」
遥と栞代は、どこか似た者同士だった。言いたいことを、はっきりと口にする。
「澪は素直でええ子やけど、遥は意地が悪いからなあ。でも、そのイジワルさが、テニスには必要なんやろ」
「なんだよ、それ」
「だって、テニスって、わざわざ、相手のいないところにボールを打ち込んで、相手を走らせるんやろ? 要は、性格の悪い奴が勝つ、とんでもないスポーツやな。その点、弓道は、己との戦い。正々堂々としてて、ええスポーツやわ」
栞代が、涼しい顔で、そう言ってのける。
「はあ!? 弓道と違って、テニスは、サーブにボレー、ストローク、それぞれに、フォアもバックもあって、山のようにやることがあるんや! ドライブとかスライスとか、お前に、分かるか? ただ的に向かって打ってるだけの、弓道とは次元が違うんや!」
言い合いは、遥、栞代、そして、あかねを巻き込んだ、三角形の形で火花を散らし始めた。
「その、ごちゃごちゃした技術の全てが、結局、相手を騙して倒すためだけのものやろ? それがテニスの陰険なところだよな」
「栞代、お前、本気で言うとるんか? それがスポーツの『戦略』ってもんやろ! その点、弓道はええよなあ! ただ、目の前の的に当てるだけ! なんて簡単なスポーツなんや!」
「おい、遥っ!」
今度は、あかねが、言い返す。
「その、的に当てるだけ、っていうのがどれだけ難しいか! 『正射必中』って、言葉、知っとるか!? 正しい射をしなければ、矢は絶対に的には当たらんのや!」
「ほー」
「心と技と体! その、全てが一つになって、初めて矢は的に届くんじゃ! 正しい気持ちが、正しい形を生み出して、そして、やっと、的に当たるんや!」
「ほほー。じゃあ、杏子が当てるのは分かるけど。栞代とあかねは永遠に当てられへん言うことやな!」
「「なんじゃと、こらぁ!」」
三人の、あまりにもレベルの低い言い合いはエスカレートする一方だった。だが、そのすぐ横で。
杏子と、澪と、まゆが、そんな喧騒には興味がないようで、ただ、目の前の黒豚とんかつに、夢中になっていた。
「……黒豚、本当に、やわらかい……」
まゆが、うっとりと目を閉じる。甘い脂が、舌の上で、ゆっくりとほどけていく。
「ほんとうに美味しいね」
杏子と澪がそれに続き、三人で顔を見合わせて、小さく笑い合った。
昼食後は、ホテルにチェックイン。
ロビーのふかふかした絨毯は、まだ、新しい洗剤の匂いがする。カードキーを受け取り、各自、荷物を部屋に置く。窓の外には、雲のベールをまとった桜島が静かに座っていた。
「……三分だけ、寝させて」
ベッドに、ばふっと倒れこんだ杏子の背中が、柔らかく、沈み込む。
「……オレは、二分」
栞代は、即答した。
「うちは、一分で、ええわ」
あかねが、続く。
「わたしは、ゼロ分かな」
まゆが、笑って、空になったペットボトルを、ゴミ袋に、そっと入れた。
その後、ホテル周辺を軽く、散策。
夕暮れ前の商店街。アスファルトからは、昼間の南国の太陽の熱が、まだ少しだけ、立ち上っている。通りの角を、路面電車がガタン、と金属の輪が地面を擦る、独特の音を残して、曲がっていった。
「夜食、何か、買っていかない?」
コンビニの角で、まゆが、皆を呼び止める。
「オレは、水だけでいい」
「あかねは、絶対に、ポテチ、必須だよね」
「わたしは、飴かな。喉、乾くし」
遥と澪は、スポーツドリンクを、二本ずつ、カゴに入れた。「明日の朝、軽く走るから」
「うわっ! お前らも、ほんま気合入ってんなあ」
あかねが、心底、感心したようにそう、言った。
硝子戸の向こうで、金魚がゆっくりと尾を振っている。
初日の空は、穏やかに暮れていき、六人の少女たちの頭上を、等しく、暗く、染めていった。
一日の、どの場面を切り取っても、誰かが眠そうで、誰かが冗動を言い、誰かが何かを美味しそうに食べ、そして、誰かがその全てを優しく見守っていた。
旅の始まりは、いつも、そんなふうに、身体の端の方から、ゆっくりと順に温まっていく。
そして、誰もが明日のまだ見ぬ自分の足音に、期待をしていた。




