第335話 午前三時半の約束と、夜明け前の道場
午前三時半。
世界はまだ、深い夜の色に沈んでいた。家の中の気配という気配も、穏やかな寝息に溶け込み、静寂だけが部屋を満たしている。
その静寂を破るように、杏子は音もなく、そっと目を覚ました。布団の端を丁寧に整え、立ち上がる。練習に向うため、ジャージに着替える。微かに擦れる音が、まるで、これから始まる長い一日の始まりを告げる、小さな鐘のように静寂に響く。
「……栞代、ごめんね。こんなに早くから……」
杏子が、隣の親友の布団に、申し訳なさそうに、声を落とす。
布団の中から、のそり、と、大きな影が起き上がった。栞代は、大きな欠伸をぐっと噛み殺しながら、にっと笑った。
「車で道場まで行ったあと、車で仮眠取っててね」
杏子が申し訳なさそうに言う。
「いや、そんな短時間仮眠したら、次大変だよ。その時間は、おじいちゃんを散歩させとくよ。あのおじいちゃんのことだ。杏子が旅行中、さぼる気まんまんだろ。せめて、今日ぐらいはな」
「……なにからなにまで、本当に、ごめんね、栞代」
「まあ杏子のクセだろうから仕方ないけど。杏子、謝るなよ。謝ると付け込まれるってなんかの海外ドラマで言ってたぞ。それにこれはオレがやりたいようにやってんだ。
「……う、うん」
「おいおい、これくらい、いいんだって。ま、オレも、あのおじいちゃんには、少しでも長く、元気でいてもらわなきゃ、困るからな」
その、ぶっきらぼうな優しさに、杏子の口元が、ふわりと綻ぶ。
「……お、おい。なんだよ、その顔は。オレは、言い合いする相手が居なくなるのも寂しいし、なにより杏子のためを思ってだなあ……」
「ふふっ。ケンカするほど、仲がいいって、言うもんねぇ」
「ち、違うわ!」
部屋を出ると、すでに祖父が完璧な準備を整えて、リビングで待っていた。
「ふっふっふ。わしは朝に強いからのう」
鼻を高くし、ドヤ顔で胸を張っている。自分が朝に強いこと。そして杏子も、自分と同じで朝に強いこと。それが、朝にめっぽう弱い祖母との違い誰もが認める、数少ない杏子との共通点であり、祖父のささやかな自慢だった。
「へえ。じゃあ、普段、朝の散歩の時間になっても、なかなか起きないのは、ただ単に、散歩が嫌いなだけなんだね、おじいちゃん」
「うっ……!」
杏子の的確なツッコミ。言葉に詰まる祖父。そして、その横で、声を殺して笑う栞代。
三人は、そうして、まだ西の空に冬の月が白く残る、夜明け前の道を中田先生の道場へと車で向かった。
冬の空気は、冴え冴えとガラスのように冷たい。吐く息は、ヘッドライトの光に白い霧となって昇っていく。
道場に着くと、眠そうな顔をしながらも、中田先生が温かいお茶を淹れて、待っていてくれた。杏子は、丁寧に挨拶をすると、軽くストレッチをして、的前に立つ。
一眠りしようと車に向う祖父の腕を、栞代が、がしっと、掴んだ。
「おじいさま。杏子に頼まれてるんですよ。さ、少し、散歩しましょう」
「えっ? いや、わしは、学校に二人を送った後、一人でゆっくりと散歩するつもりじゃが」
「学校に送った後、安心して、家でゆっくり二度寝する、の間違いでしょ。いいから、ほら、行くぞ」
栞代は、有無を言わさず祖父を車から引きずり出すと、杏子が弓を構える道場の、その周囲を、並んで歩き始めた。
「……栞代くん。頼むから、旅行中、杏子の周りに変な男を、絶対に、近寄らせるなよ」
「……はあ? 杏子に? だいたい、杏子は弓道のことしか頭にねーよ」
「しかし! 杏子は、もてるじゃろ? あんなに、可愛くて、美人で、優しくて、スタイルも抜群で、そのうえ、弓道着を着た時の姿は、別格じゃ!」
「まあ弓道場には、あのソフィアがいますからねえ。男子の目は、だいたいそっちに釘付けなんで、大丈夫ですよ」
「ふん。高校生レベルじゃ、見る目のない男どもに、杏子の、あの奥深い良さは、まだ理解できないんじゃな」
「……そうかも、しれないですねえ」
栞代は、もう、ほとんどまともに聞いていない。
「しかし、念には念を、じゃ! 頼んだぞ、栞代くん!いや、栞代さま!」
「はいはい、分かりましたよ、お・じ・い・さ・ま」
いつものことながら、栞代は、呆れ顔だ。
「よしよし……」
厭味というものが祖父には通じないらしい。
「で、お前さんはどうなんじゃ? 彼氏とかおらんのか?」
「はい、セクハラジジイ、一発アウトー。今ので完全に犯罪者決定。もう、口、ききません」
「うっ……! す、すまん……!」
栞代は、声を殺して、くつくつと笑った。
「冗談だよ。オレも杏子と一緒。今は弓のことしか、頭にないんで」
「……そうか」
祖父は、そう言うと、ふと、真面目な顔になった。
「だがな、栞代くん。やりたいことは、ちゃんとやっとけよ。高校時代なんて、本当にあっという間に終わってしまうからのう」
「……コーチと似たようなこと言うんだな」
栞代はそう言って、夜明け前の薄紫色の空を見上げた。
「大丈夫だよ。オレは、オレのやりたいようにやってる。むしろ、やらない方が、絶対に後悔するって、もう、分かってるから」
「と、ところで、栞代。もう少しゆっくり歩いてくれえ」
「あ、悪い悪い」
二人は、歩きながら、時折、道場の明かりに、視線を向けた。
その光の中、杏子の、凛としたシルエットが見える。
弓を構え、張り詰めた静寂をその身に纏う。矢羽根が弦を擦る乾いた音。そして、全てを切り裂くような鋭い弦音。放たれた矢は、見えない糸に引かれるように的へと吸い込まれ、夜明け前の静寂に、乾いた、心地よい音を、響かせた。
「……やっぱり、杏子は、別格だな」
栞代が、思わずそう呟く。
祖父は、もう、にやにやと頬を緩ませ、ただ、誇らしげにその姿を見つめ続けていた。
杏子は、一切、二人の視線を気にする様子はない。彼女にとって、今、この世界の全ては、的と己の呼吸、ただそれだけだった。
ひとつ、その背後から静かに自分を見守る、祖母と並ぶもう一人の師。中田先生には褒められたい。その、小さな、小さな願いだけを胸の奥に秘めて。
散歩を終えた祖父と栞代が道場に戻り、杏子の補佐に入る。
杏子は、ほんの少しペースをあげる。ゆっくりしたペース。量を重視するペース。
いろんなペースを試しつつ、確認していく。
一華も来たかっただろうな。
ふと栞代が思う。
最後の矢を放ち終えた杏子は、深く息を吐き、弓を納める。
丁寧に礼をし、慌てて制服に着替える。
「朝もはよから、ほんま、かなわんわ。てか、まだ夜中やで」
中田先生は、口では迷惑そうにそう言った。だが、その目尻は、隠しきれない優しい笑みでほころんでいた。
「でもな、杏子。そういう、あんたのどうしようもないしつこさが、一番の強さなんやで」
「ありがとうございました!」
杏子は、そう言って、深く、頭をさげる。(……おばあちゃんは、いつも、すぐに褒めてくれるのに、先生はなかなか褒めてくれないなあ)
「杏子」
先生の呼びかけに、杏子は今度こそ、と期待して、元気よくはっきりと、「はいっ!」と、返事をする。
「……いつでもおいで。どーせ朝は早いんじゃ。老人はな」
そう言われて返した二度目の返事は、ほんの少し、大人しいものになった。
祖父も中田先生に挨拶をして、二人を学校に連れて行く。
まだ真っ暗な中、祖父の車に乗り込む。杏子は、窓の外を流れていく眠る街の景色を見つめていた。
「杏子、風邪ひくなよ」
栞代が、静かに声をかける。
「うん。ありがと」
修学旅行という、特別な数日間が、ゆっくりと、始まろうとしていた。




