第334話 行かないで、と、おじいちゃんは言った。
修学旅行前夜。
杏子の部屋の片隅には、整然と並べられた荷物が、静かに出発の時を待っていた。制服の下に着る、アイロンがけされたシャツ。三泊四日分の衣類。そして、祖母が「お友達とお食べなさい」と、心を込めて詰めてくれた、おやつの入った巾着袋。
準備は、完璧。あとは、ゆっくりと眠り、明日の、まだ夜の気配が残る、午前三時半に起きるだけ──そう、ただ、それだけのはずだった。
そのはずだったのに。
「ぱみゅ子ぉぉぉぉ……!」
リビングの畳の上を、ごろごろと転がりながら、祖父は、この世の終わりのような、涙声を張り上げていた。
「やっぱり、行かんでくれえぇぇ! わしは、わしは、寂しいんじゃぁぁぁあ!」
その、あまりにも情けない姿に、祖母は、深いため息をついた。
「……また、始まった……」
杏子は、困ったように眉をひそめながらも、その瞳には、心配そうな色が浮かんでいる。
一方、その隣で、栞代は、仁王立ちになって両手を腰に当て、容赦なく、その駄々っ子に、切り込んだ。
「おじいちゃん。夏の合宿の時なんか、ほとんど一ヶ月、杏子と離れてたじゃないの」
「いやいや! 全然、違う!」
祖父は、がばっと、畳の上から起き上がり、ぶんぶんと、両手を振った。
「あの時は、いつでも顔を見に行ける、近場に宿を取っとったし、もし、万が一、わしが、寂しさのあまり、倒れそうになったら、すぐに押しかけるつもりじゃった! だから、耐えられたんじゃ!」
「……そんなこと、考えてたんかいっ!」
栞代の、鋭いツッコミが飛ぶ。
祖父は、ふんと鼻をすすりながら、さらに、畳をバンバンと叩いた。
「しかし、今回は違う! 修学旅行なんぞ、弓道部どころではない、大所帯じゃろうが! まさか、こっそり、ついて行くわけにもいかん! ……ならば! 行かんといてくれ、ぱみゅ子ぉぉぉ……!」
「いやいやいやいや!」
栞代は、もう、頭を抱えるしかない。
「おじいちゃんさあ! ちょっと前、杏子が『行かない』って言い出した時、一生懸命、説得してたやん!」
「…………一生の、不覚じゃった」
祖父は、そう呟くと、ごろんと、横を向き、うう、とうめき声を上げ始めた。
「それに……! 弓道部の合宿の時よりも男の数が多い、おそらく、わしのような、ロクでもない、不埒な男がおるはずじゃ! 杏子は、美人で、可愛くて、優しいから、すぐに声をかけられて、ころっと、騙されてしまうに、違いない!」
「……おじいちゃんみたいな奴に?」
栞代は、もはや、呆れ返って、そうツッコんだ。祖父が、自分の修学旅行で、一晩中、女の子と話していたと、自慢していたのを、彼女は、決して忘れてはいなかった。
「大丈夫だって。オレがちゃんと見張ってるから」
その時だった。二重に、三重に、呆れ返っていた祖母が、そっと、栞代の耳元で、囁いた。
「栞代ちゃん、大丈夫よ」
その声は、落ち着いていて、全く慌てても動揺もしていなかった。
「杏子は、必ず行くから。みんなの前で行くって言ったことは絶対に貫くから。
おじいちゃんを説得できれば、それに越したことはないけれど、たとえ、できなくても、あの子はちゃんと行くわ。そこは、安心していいの。……もう少ししたら、もう、ほったらかして、先に寝ていいから。明日は、本当に、早いから」
栞代は、一瞬、目を丸くした。
──なるほど。さすがおばあちゃん。この、巨大な駄々っ子の操縦方法も、そして、その限界点も、全て知り尽くしてるんだ。そりゃ、そうか。こんな、面倒くさいおじいちゃんと、もう、五十年以上も一緒にいるんだもんな。……もはや、神だな。
確かに、杏子は優しい。祖父のことを、本気で心配して、心が揺らぐかもしれない、と思ったけど。
でも──弓を引く時の、あの杏子を、栞代は知っている。あの、鉄のような集中力。あの、誰にも、何にも、曲げることのできない、強靭な意志。大事な時に、絶対にブレない。言い出したらとにかく頑固だからな。
そのことも、このおばあちゃんは、誰よりも、分かっているのだろう。
「……でも、おばあちゃん。三時半起きですから、そろそろ、タイムリミット、かもしれませんねえ」
「ええ、そうなのよねえ」
祖母は、肩をすくめた。時計の針は、もうすぐ、午後九時を指そうとしていた。
杏子は、まだ、畳に突っ伏す祖父のそばを、離れようとはしなかった。
「おじいちゃん。わたしね、ちゃんと、必ず、帰ってくるから」
その、孫娘の、あまりにも優しい声に、祖父の肩が、ぴくりと震えた。
「……帰ってくるのは、当たり前じゃ」
その時だった。祖母が、静かに、そして、決定的な一手を放った。
「……あら。本当に、そうかしら?」
「な、なんじゃと!?」
祖父が、どきりとして、顔を上げる。
祖母は、静かに笑いながら、昔を思い出すように、語り出した。
「わたしが、高校を卒業してからのこと、何度も話したでしょう? ……あんまり杏子を、がんじがらめに縛り付けているとね。この子も、わたしみたいになっちゃうかもしれないわよ?」
杏子の祖母は、その父親から蝶よ花よと溺愛されて育った。その反発もあり、高校を卒業したとたん、「自立したい」と、一人暮らしを始めたのだ。当然、父親の猛反対はあった。だが、母親の支持を取り付け、自分の意志を見事に貫き通した。
「わたしは、杏子の絶対的な味方だし。もちろん、あの子の両親も、そう。……そうなったら、おじいちゃんに、勝ち目はないわねえ。わたしは、両親から見れば、大親不孝娘だったかもしれないけれど、杏子は、そんなこともないしねぇ」
祖父は、口を、ぱくぱくさせ、何も言えなかった。そのことは、もちろん知っている。だからこそ、この言葉は、何よりも、重い。
「杏子だって、優しいけれど、芯の、とても強い子よ。その過干渉が、ずっと、ずっと続けば……わたしみたいに、自分で、自立の道を選んでしまうかもしれないでしょ。『もう、わたしのことは、放っておいて。自由にさせて』って、この家を、出て行ってしまうかもしれない。……それでいいの?」
祖父の顔から、さっと、血の気が引いた。
「そ、そんな……! ぱみゅ子が、この家を、出ていく……!?」
「その時は、わし、絶対に、付いていく!」
「ストーカーかっ!」
栞代の、あまりにも的確なツッコミが、炸裂した。
杏子は慌てて、祖父の、冷たくなった手を、両手で握る。
「おじいちゃん、大丈夫だよ。わたし、すぐに帰ってくるから。高校を卒業したって、ずっと、ここに居るから。……でも、修学旅行は、行くってもう決めたんだ。だから、ほんの少しだけ、お留守番、しててね」
祖父は、しばらく、黙り込んでいた。やがて、観念したように、深いため息をついた。
「……仕方ない、のう。……分かった。特別に、許す。旅行、行ってきて、よい。……楽しんでおいで、ぱみゅ子」
杏子は、にっこりと、花が咲くように、笑った。
「うん、行ってくる! ちゃんとお留守番しててね。おばあちゃんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
祖母は、くすくす笑いながら、栞代にだけ聞こえるように、耳打ちした。
「ね、言ったでしょう? 杏子は必ず行くって」
「……いったい、どっちが、孫かワカランな」
栞代が、ぽそっと呟くと、祖母は、を上げて楽しそうに笑った。
こうして、騒がしい前夜は、ようやく静かに収束した。寝室の片隅に置かれた目覚まし時計だけが、午前三時半という厳しい起床時間に向けて、静かに、その時を、刻み続けていた。




