第332話 杏子城籠城戦~友情と、一杯の紅茶~
「……わたし、行かない。だって、四日間も弓を引けないなんて……絶対に、いや」
杏子の、その、あまりにも静かで、しかし、鋼のように固い意志のこもった言葉に、リビングの温かい空気は、一瞬にして、凍りついた。
(……出た。やっぱりな。杏子は、一度こうと決めたら、絶対に聞かんからな……)
栞代は、額を押さえて、心の中で、深く、長いため息をついた。ここから、長い、長い、戦いが始まる。
「まあ、待て、杏子」
栞代は、まず、冷静に、論理で城の外堀を埋めにかかった。
「三泊四日とはいえ、初日は、行く前に中田先生のところで引ける。帰ってきた日も、道場か、先生のところか、どっちかには、必ず行けるだろ。問題は、間の、丸二日だけだ」
だが、杏子は、穏やかな笑顔を崩さない。その瞳は、少しも揺らいでいなかった。
その時、あかねが、不敵な笑みを浮かべて、奇襲を仕掛けた。
「なあ、杏子。修学旅行ってさ、バスとか、フェリーとか、移動ばっかりやん? まゆの車椅子、わたし一人で介助するのは、正直、ちょっとツライねん。少しぐらい、手伝ってくれても、ええんちゃう?」
それは、杏子の、仲間への優しさに訴えかける、巧妙な作戦だった。しかし。
「大丈夫だよ。栞代が、いるじゃない」
杏子は、首を傾げて、その攻撃を、さらりと受け流した。
「……待って」
その時、それまで黙っていたまゆが、静かに、手を挙げた。
「わたし、栞代に手伝ってもらうの、ちょっと、シンドイ、かな。……栞代、少し乱暴だから」
「…………」
一拍の間を置いてから、栞代は、ゆっくりと、深呼吸をした。
「……そうそう。オレは、すっごい、乱暴だからな」
そう言いながら、ぎりり、と、奥歯を噛み締める。
(ちくしょぉぉぉ……! まゆ、お前、後で、覚えてろ……!)
その、誰にも聞こえないはずの、心の声。それを、真映は、聞き逃さなかった。
「出ましたーっ! 栞代姐さんの、心の中の『覚えてろリスト』に、今、まゆさんの名前が、追加されましたー!」
「お前は、そのリストの、常に一番上に居座ってんだよっ!」
栞代の手のひらが、すかさず、真映の頭を、ぽかりと、はたく。
「いったあああい! 一華! 今の、暴力の決定的証拠、撮影した!?」
「ごめん、真映。予測不能な事象への対応は、今後の課題です」
合成音声のような、抑揚のない声が、冷静に、響いた。
杏子の笑顔が、少しだけ、動いた。
「ほら。わたしがいないと、弓道部の練習も、なんだか、心配だし」
その、反撃とも言える言葉に、楓が、即座に応戦する。
「杏子部長! 大丈夫です! 杏子部長がご不在なのは、確かに、地球が太陽を失うのと同じくらい寂しいですが、わたしたちは、ちゃんと、練習しますからっ!」
「そうです」と、つばめも続く。「そうしないと、後で、お姉ちゃんにも、何を言われるか、分かりませんし」
「データは、全て、クラウド経由で、部長のスマートフォンに、リアルタイムで転送しますので、ご安心ください」
一華が、完璧なサポート体制を、プレゼンする。
その時だった。
それまで、静かに皆のやり取りを見ていたソフィアが、真剣な顔で、すっくと立ち上がった。
“Kyōko, ystäväni…”(杏子、わたしの、友達……)
彼女は、杏子の瞳を、まっすぐに、見つめた。
「もし、杏子が来なかったら、この修学旅行は、わたしにとって、半分も、楽しくありません。だから──あなたは、来なければ、だめです!」
「おお……ソフィア、すごい、ド直球やな……」
あかねが、その、魂の告白に、感心する。
そして、最後の一撃を放ったのは、紬だった。彼女は、腕を組み、ただ、冷静に、事実だけを、問いかけた。
「杏子。もし、わたしが、あなたと全く同じ理由で、『修学旅行には行かない』って、今、ここで言ったら。……杏子、どう思う?」
「……っ」
紬……。杏子は、その、あまりにも的確な、自分の心の一番柔らかい場所を突いた一言に、思わず、目を伏せた。
(……さすが、紬。急所を的確に抑えてくる。オレだったら、『じゃあ、オレも行かねえ!』とか言って、ただの脅迫になってたな……)
栞代は、心の中で、その静かなる切れ味に、感嘆していた。
その、決定的な一撃で、沈黙した杏子。
その瞬間を、見計らったかのように、祖母が、にっこりと笑い、湯気の立つマグカップを、皆の前に、差し出した。
「みなさん、ありがとうね。杏子のために、こんなに、真剣になってくれて。さ、おじいちゃんの、とっておきの紅茶を飲んで、少し、ゆっくりしましょう」
「……うわ。こりゃ、いつもに増して、美味いな、おじいちゃん」
栞代が、そう言った、その瞬間だった。
栞代のスマートフォンが、ポケットの中で、短く、震えた。
LINEの通知音。
スマホの画面を一瞥し、紅茶に、そっと口をつけて、栞代は、まるで、何でもないことのように、杏子に、話しかけた。
「……なあ、杏子。お前が弓に触れない、っていうのは、間の二日間、なんだよな?」
「うん……」
「もし、それが、半分の一日になったとしたら。……修学旅行、行けるか?」
栞代は、続ける。
「もちろん、その、弓に触れないたった一日だって、ゴム弓だろうが、素引きだろうが、オレが、杏子が、納得するまで、一晩中でも、付き合ってやるからさ」
皆の、真剣な想いを、一身に受けた、杏子。
「……う、うん。そうだね……一日だけなら……。みんなと、行くよ。わたしも、少しは、譲らないと、だもんね」
あの、頑固者の杏子が、ついに、少しだけ、譲歩した。
──今だ。
栞代は、スマホの画面を杏子の目の前に見せながら、誇らしげに言った。
「たった今、拓哉コーチから連絡があった。修学旅行中、一日のうちの半分自由行動の日があるだろ、その日、鳴弦館高校の道場で練習させてもらえる、正式な許可が下りたってさ」
「「「「「えええええええええっ!?」」」」」
杏子以外の、全員の声が、リビングに、綺麗に、ハモった。
「……まあな。こんなことになるんじゃないかと思って、前々から手は打ってたんだよ。ちょっと、時間はかかったけどな」
栞代が、ふう、と、一息ついた。
次の瞬間、リビングは、歓喜の渦に包まれた。
「いや〜〜〜っ! さすが、栞代姐さん! アネゴ! 若頭! さすがです! わたし、一生、ついて行きます!」
「お前の名前は、まだ、『覚えてろリスト』の、トップなんだよ」
「で、でも、今日、まゆさんが、トップに躍り出たのでは……?」
「えっ!? 栞代、あれ、杏子を説得するための、冗談だよっ!?」
まゆが、慌てて、弁解する。
「分かってる分かってる。大丈夫。リストには、こいつの名前しか書いてないから」
「そ、そんなぁ〜〜〜!」
部員全員が、喜び、安堵している、その温かい空気の中。
ただ一人、杏子の祖母だけが、冷たい、氷のような顔で、隣に座る、祖父に、詰め寄った。
「……ねえ、修学旅行で、女の子と一晩中お話をした、というそのお話。もう少し、詳しく、聞かせていただきましょうか?」
「い、いや、わしは、そんなこと、一言も言っとらん! あれは、全部、杏子を説得するためのウソじゃ!」
慌てふためく祖父。そこへ、真映が、にやりと笑って、加勢する。
「いーえ。おじい様は、確かにそう仰ってました。この、真映の耳が、はっきりと、聞きました。真実の響きがありましたっ」
栞代が、笑いながら、真映の肩を叩く。
「よし、真映。今の加勢で、リストから少し外してやる。……な、紬?」
いつものように、不意に話を振られた、紬。
彼女は、いつも通りの、完璧なタイミングと完璧な口調で言い放った。
「それは、わたしの課題ではありません」




