第328話 同意書と、未来へのパスポート
翌日の放課後。
改修されたばかりの弓道場は、まだどこか、よそよそしいほどに綺麗で、真新しい木の香りが、冬の冷たい空気に混じって、部員たちの胸を清々しく満たしていた。その、少しだけ浮足立ったような空気の中、拓哉コーチが、数枚のクリアファイルを手にして、部員たちの前に立った。その表情は、いつもと変わらないクールな面持ち。しかし、その瞳の奥には、確かな期待の光が宿っていた。
「えー……さて。今回から導入した撮影・解析システムについてだが、これによって収集されたデータは、大学の研究室に送り、より専門的に分析してもらうことになった。これは、個人の指導に役立つというだけでなく、今後の、日本の競技弓道の発展にも繋がっていく、非常に意義のある試みだ。ただし──」
コーチは、ファイルを一枚、高々と掲げた。中には、細かい文字がびっしりと印刷された、一枚の用紙が入っている。
「ここにいる全員、まだ未成年だからな。君たちの貴重な個人データでもある、この撮影データを、学術研究の目的で外部に提供するためには、保護者の同意が必要になる。これが、その同意書だ。各自、必ず持って帰って、内容をよく説明し、サインをもらってきてくれ」
コーチは、一人ひとりに、その「未来へのパスポート」とも言える書類を手渡していく。
「撮影データの使用条件や、利用規約なんかが、堅苦しい言葉で書いてあるが、もし、ご両親が何か質問や不安な点がある場合は、いつでも、俺の携帯に直接、電話をかけてもらって構わないから」
「同意書、かあ……」
杏子が、その、少しだけ重みのある紙を見つめて、ぽつりと呟いた、その瞬間。
「はいっ! コーチ、質問です!」
真映が、ビシッと、手を挙げた。
「あの、うちの親、たぶん、こういう『同意書』とかいうのに、めちゃくちゃビビると思うんですけど! 『あんた、どっかに騙されて、攫われるんか』とか、『臓器売買の契約書とちゃうやろな』とか、『最終的に、美味しく食べられてしまうんちゃうか』とか、言い出すと思うんですけど!」
その、あまりにも突拍子もない心配事に、道場に、どっと笑いが起こる。
コーチは、苦笑しながらも、真剣な表情で答えた。
「確かに、少々形式ばってはいるが、それだけ、君たちのデータは、慎重に扱われるべき、大切なものだということだ。もちろん、ご家族が不安に思う場合は、拒否することもできる。そして、ここは繰り返し強調しておきたいが、拒否したからといって、それは、撮影データの外部での解析が出来ない、というだけであって、今後の練習や、部活動において、なんの不利益もない。そこは、安心してほしい。当然だが、選手選考にもまったく関係ない。うちは完全実力主義だからな」
その時、ソフィアが、さらりと言い切った。
「わたしの両親は、きっと、大歓迎します。こういう、学術的な研究への協力は、むしろ、光栄なことだと、言うと思いますから」
その、あまりにも理知的で、文化的な香りのする一言に、部室にいた全員が、(……さすが、異文化で育った家庭は、格が違う……)と、心の中で、静かに呟いた。
「杏子のとこは、どうなんだ?」
栞代が、横目で、親友の顔を覗き込む。杏子は、少しだけ頬を赤らめながら、答えた。
「う、うん……。うちのおじいちゃんが、そもそも、このカメラを探してきた張本人だって、この前、聞いたからなあ……」
「おおっ! なら、杏子部長は、きっと、誰よりも美人に撮ってもらえますねっ!」
楓が、目を輝かせる。しかし、その言葉を、真映が、ふんと鼻で笑った。
「美人に撮れるのは、元から美人な人だけなんだよ、楓。ソフィア先輩なら、そうだろうけど、うちの親分は、残念ながら、全然美人じゃねーからなー。せいぜい、カメラの性能で、なんとか、幼稚園児な親分が、小学生くらいには撮れるように、わたしが祈っておいてあげますよ」
真映が、机に両肘をつき、その上に顎を乗せて、挑発するように言う。その手を、隣にいたあかねが、音速で、ズバッと払いのけた。
「な、なにをするんですか、アニキっ!」
真映が抗議の声を上げた、その瞬間。栞代からの、氷のように冷たい視線が、その身に突き刺さるのを感じた。
「……あ、いや、その、親分は、たいへん、お美しい、でっす……」
しゅるしゅると、真映は、小さな声で、そう呟いた。
紬は、その一連の茶番に、静かにため息をつくと、「……わたしの課題ではありません」と、冷静に、切り捨て、場を和ませた。
「おい、オレまだ声かけてねーよ」栞代が追いかける。
数日後、全員の同意書が滞りなく揃った。拓哉コーチは、それを一枚一枚確認し、丁寧に封筒に入れながら、言った。
「よし。これで、正式に、研究室にデータを送ることができる。これからは、俺の経験や勘だけじゃない。AIによる、客観的な解析結果も、君たちの元に、フィードバックされることになる」
「AI解析……! まさに、夢にまで見た、理想の環境です……!」
一華が、きらきらと、まるで宝石でも見るかのように、目を輝かせている。その指先は、もう、タブレットの画面の上を滑り、未来に送られてくるであろう、膨大なグラフや、美しいデータの海を、想像しているのが、誰の目にも明らかだった。
「お前、そのデータが届いたら、絶対に、徹夜する気、満々だろ」
栞代が、半分呆れたように、しかし、楽しそうに笑う。
「それは……否定、できません」
「一華、無理したら、だめだよ」
杏子が、心配そうに、その横から、声をかけた。「これは長期戦なんだから。のんびり、ゆっくり、やらないと」
その、どこまでものんびりした笑顔に、一華は、少しだけ、視線を落とし、真面目な声で、返した。
「ですが、全国制覇のためなら、これしきの寝不足など……!」
「だめだめ!」
杏子が、その言葉を、慌てて遮る。
「一華が、そうやって喜んでくれるのは、わたしもすごく嬉しい。でもね、無理は続かないから。……わたしたち、続けないと、いけないんだからね」
その、どこまでも真っすぐな言葉に、一華は、小さく、しかし、強く、頷いた。
「……はい」
真面目になった空気。それを、再び、破壊するように、真映が、両手を腰に当て、大げさに、宣言した。
「よーし! その、難しいデータも、AIも、ぜーんぶまとめて、このわたしが見守ってやる! 我こそは、“疾風の真映”改め、『解析の番人』と、お呼びください!」
「お前が、何の役に立つんだよ。全部、パソコンとネットでの、デジタルのやりとりだぞ」
あかねの、即座の、そして、あまりにも正論なツッコミ。
部室いっぱいに、温かい笑い声が、広がっていく。
それは、これから導入される、新しいシステムの、冷たい電子音とも、不思議と、心地よく溶け合い、これからの、光田高校弓道部の、明るい未来を、予感させていた。
AIと、膨大なデータの海へと、その情熱の全てで飛び込んでいく、一華。
日々の、地道な練習を、その温かい心で、支え続ける、杏子と、仲間たち。
そして、その全てを、陰から、力強く後押ししてくれる、父兄や、光田弓矢会という、大きな存在。
窓の外には、冬の夕陽が、ゆっくりと沈みかけていた。
その、最後の光に照らされて、弓道部の少女たちは、これまで以上に、強く、美しく、そして、どこか、ユーモラスに。
未来へと続く、その道を、確かに、歩き出していた。




