第327話 若頭の仁義と、栗饅頭の和平協定
こうして、杏子と栞代、二人きりでの「謝罪」という名の、新たな戦いは、予想だにしなかった、温かい形で幕を閉じたのだった。
冬の夕暮れは、驚くほど足早に、夜の闇へとその姿を変えていく。群青色の空に、まだわずかに茜色が残るその時刻、杏子と栞代は、高階邸からの帰り道を、並んで歩いていた。芯まで冷え切っていたはずの空気が、今はもう、頬を撫でるのが心地よい。謝罪を終えた安堵と、高階会長夫妻の意外な温かさに触れた喜びが、二人の胸の奥を、じんわりと温めていた。
やがて、見慣れた杏子の家の明かりが見えてくる。その、玄関先を照らす街灯の下に、二つの、小さな影が揺れていた。
「……おい。お前ら、そこで、何してんだ?」
栞代が、目を細めて、訝しげに問いかける。
そこにいたのは、冬の寒さに身を縮めながらも、妙に落ち着きなく立ち尽くす、楓と真映の姿だった。
「えっ、あ、ええと、その……!」
楓は、慌てふためいている。その横で、真映は、待ってましたとばかりに、すっと背筋を伸ばし、ビシッと、杏子と栞代に向かって、頭を下げた。
「若頭! 親分! お勤めご苦労さまです。ご無事のご帰還、心より、お慶び申し上げます! わたくしめ、『疾風の真映』としては、敵地に乗り込まれた親分と若頭の万が一を案じ、すぐさま加勢に駆けつけられるよう、ここで待機申し上げておりました!」
「わ、わたしは、杏子部長が、そ、その心配で、心配で……! い、いえ、その、決して、ストーカーとか、そういうわけでは、ありません! ただ、純粋に、心配で……!」
栞代は、その、あまりにも対照的な二人の言い分を聞き、それぞれの顔を交互に見比べると、心底、呆れたように、深いため息をついた。
「……お前らも、ほんっとうに、変わらねえなあ。……で、真映。その、ヤクザごっこは、いつまで続けんだ?」
横で、真映が、しゃんと胸を張った。
「若頭。わたくし、この一生を賭して、親分に、お慕い申し上げる所存でございます!」
「ふぅ……」
その、真映の勢いに、杏子も、静かに、ため息をついた。
「ま、しゃあないな。……ほれ、二人とも、寒かっただろ。こういう時は、中で待ってたらええんやで。杏子のおじいちゃんは、とにかく喧しいのが好きやから、むしろ、大喜びするから」
栞代がそう言うと、楓は、まだ、理性の最後の砦にしがみついているようだった。
「で、でも、杏子部長がご不在の時に、勝手に、ご自宅に上がり込むなんて、そんな、恐れ多い……!」
そう言いながらも、その瞳には、隠しきれないハートマークが、びっしりと埋まっていた。
「いや、若頭。こうして、外で、親分のご帰還を、ひたすらにお待ちすることこそが、『仁義』というものでございます」
「……いや、もう、オレが寒い。入るぞ」
栞代は、そう言って、まるで自分の家に帰ってきたかのように、躊躇なく、杏子の家の玄関の扉に、手をかけた。
「えっ、でも……ご迷惑では……」
「迷惑じゃないよ、楓。さ、入って」
杏子が、にこりと微笑んだ、その瞬間。楓の理性の砦は、木っ端微塵に、崩れ落ちた。
「お、お邪魔、いたしますっ!」
玄関を開けると、リビングから、驚いたような、それでいて、弾むような声がした。
「おや? なんじゃ、また、増えとるな」
祖父は、頬を緩ませ、その声まで、嬉しそうに弾んでいた。
「雅子ちゃんや、ご飯、足りそうかのう?」
「ええ、おじいちゃんが我慢したら、二人分くらいは、余裕でありますよ」
台所から、祖母の、いたずらっぽい声が、返ってきた。
その夜の食卓には、大きな土鍋が、湯気と共に、どんと置かれた。蓋を開けると、鰹出汁の、深く、そして優しい香りが、部屋いっぱいに広がる。白菜やしいたけの甘い香り、牛肉の旨みが湯気に溶け込み、冷え切った少女たちの、空腹を直撃した。
「よっしゃ、みんな、座ったか! 今夜は、大宴会じゃな!」
祖父が手を叩くと、楓と真映は、「やったー!」と同時に叫び、杏子と栞代は、やれやれと、苦笑いを浮かべた。
箸の音、笑い声、そして、いつの間にか「鍋奉行」と化した祖父の、穏やかな声が、食卓に交錯する。
「はいはい、楓さん、その白菜は、もうちょっと待った方が、味が染みて美味いぞ。……真映さん! そんなに、肉ばっかり、取らんの!」
「ええ〜! これは、親分の分を、確保してるだけですから!」
「さっきから、お前の皿の上にある肉、全部、自分で食っとるだろうが!」
栞代がツッコむと、杏子が笑う。
「いちいち、チェックしないでくださいよ、若頭!」
その、どこまでも平和で、温かい笑い声が、絶えることはなかった。
食後。祖母が、茶菓子として、高階家に持って行ったのと同じ、栗饅頭を出すと、栞代は、スマートフォンを手に取り、その写真を一枚撮った。そして、グループLINEに、こう、打ち込んだ。
『【ご報告】ことの顛末は、全て、この栗饅頭が、解決いたしました』
すぐに、『草』『やっぱり、最後は食べ物かよ』『おばあさま、最強説』など、部員たちからの返信が、次々と飛び交った。
片付けが終わると、全員で、再び、居間に集まり、色とりどりの折り紙を広げた。
「冴子部長たち、今頃、必死で、勉強してるんだろうなあ」
杏子が、そう声を上げると、祖父が、改めて、昨日、三年生たちが、自分を抑えて、家まで送ってくれたことを、感謝した。
「さすが、ご隠居! そりゃあ、怒りますよねぇ!」
真映が、感心したように言うと、栞代が、呆れたように、呟いた。
「……なあ。真映とおじいちゃんって、もしかして、こっちの方が本当は血ぃ、繋がってんじゃねえだろうな……」
その後ろで、「誰が隠居じゃっ」と祖父が憤慨し、杏子がケラケラ笑ってた。
静かに、紙を折る音だけが、部屋に並ぶ。時折、「あーっ! もう、羽がまたずれた!」と真映が叫び、楓が「大丈夫! 落ち着いて、真映!」と励ます声が、その静寂に、温かい彩りを添えていた。
さすがに、長時間はできなかったが、最後は、祖父自慢の紅茶をご馳走になり、楓と真映は、帰ることに。
「二人とも、自転車やろ? 気ぃつけて、帰れよ」
祖父が、少しだけ、眉をひそめた。
「家に帰ったら、必ず、LINEで無事に着いたと、報告してや。……頼むで」
「「はーい!」」
「任せといてください!ご隠居」
「誰がご隠居じゃっ。まだまだ現役じゃぞ」
二人は、大きく手を振りながら、冬の夜道へと、元気に漕ぎ出していった。
残ったのは、杏子と栞代、そして、祖父母。
四人は、再び、折り紙を手に取る。
「……なんか、こうしてると、自分の勉強、してないなあ」
栞代が、ぼそりと呟いた。
「勉強してる人のために、わたしたちが、勉強をさぼってる気もするよね」
杏子が、そう言って、くすりと笑う。
「ずっと続けたいなあ」
ストーブの上で、湯気を上げる薬缶の、しゅう、という優しい音が、静かな部屋を満たしていた。
外は、どこまでも深い、冬の闇。だが、この家の中には、折り紙の優しい色と、穏やかな笑い声と、そして、どこまでも温かいぬくもりが、満ち溢れていた。




