第325話 帰る場所、そして、彼女の覚悟
杏子が、栞代と共に自宅の玄関を開けると、そこには、格調高い紅茶の香りが、まだ、ふわりと漂っていた。
「……あれ? おじいちゃん、また、あの特別な紅茶、淹れたの?」
「おお、ぱみゅ子、お帰り」
リビングを覗くと、祖父は、ソファに深く身を沈め、静かに本を読んでいた。
「練習が、遅くなる時は、ちゃんと、連絡せんといかんぞ。迎えに行くからな」
「うん。ごめんね。なんだか、バタバタしちゃって」
「さっきまでな、冴子さんたち、三年生が来てたんじゃ」
「えっ? どうして?」
あっ、しまった、というように、祖父の顔が一瞬、引きつった。
「あ、いや……。多分、わしの、このイケメンな顔を見に、来たんじゃろうなあ。わっはっは」
「もう……。遊びに来てくれるのは、嬉しいけど。おばあちゃん、何かあったの? 冴子さんたち、もう受験、本当に、寸前なのに。瑠月さんは一週間ないんだよ」
杏子が、奥の台所に向かって声をかけると、祖母が、穏やかな顔で、お盆を持って現れた。
「……杏子ちゃん。実はね」
祖母は、式典の時、興奮した祖父が飛び出そうとしていたのを、三人が必死で抑えつけて、そのあとも興奮が収まらない祖父を、家まで送り届けてくれたことを、ゆっくりと説明した。
「……あの三人が、ずっと、おじいちゃんのお話相手になって、なだめてくださらなかったら、今頃、どうなっていたことか」
「ふぅ……」
杏子は、改めて、祖父に向き直り、盛大なため息をついた。
「おじいちゃんって、ほんと、女子高生みたいだね」
「ん?」
「真映と、全く一緒だもん」
「う、うーむ……」
図星を突かれ、祖父は、言葉に詰まる。
「でもね、おじいちゃん」
杏子の声が、ふと、優しくなる。
「もう、おじいちゃんも、いい年なんだし、あんまり、かっとなって怒ったら、だめだよ。おばあちゃんも、わたしも、心配するんだから。身体に悪いよ。落ち着いて落ち着いて」
「しかし、のう……! わしの、大事なぱみゅ子が、あんなふうに、侮辱されたら
……!」
「いいんだよ」
杏子は、祖父の言葉を、静かに遮った。
「誰に、何を言われても、わたしには、関係ないことだから。それにね」
彼女は、悪戯っぽく、祖母と、目を合わせた。
「わたしには、おばあちゃんが……ううん、おじいちゃんが、褒めてくれたら、それ以外は、もう、何も要らないんだよ」
「ぱ、ぱ、ぱみゅ子ぉぉぉぉぉぉ!」
次の瞬間、祖父は、感情のダムが決壊したように、杏子に抱きつき、その頭を、わしわしと、力任せに撫で回した。
(……ふふっ。杏子も、おじいちゃんの操縦が随分と上手くなってきたわね)
祖母は、心の中で、そう呟いた。
翌日は、もう、いつもの日常に戻っていた。
早朝、杏子は、まだ布団をはね飛ばし、布団をまるで無視したかのような姿で眠る祖父の横に立ち、元気な声をかける。
「さあっ、おじいちゃん! 散歩、行くよっ!」
冷たい冬の空気に頬を叩かれながら、肩を並べて歩く。
いつも通りの、一人漫談を聞き流しながら、家に帰る。祖母は、とっくに起きていて、温かい朝食の準備をしながら、二人の帰りを待っていた。
食後、栞代が、いつものように迎えに来て、二人で早朝練習へと向かう。
部分的に新しくなった道場は、まだ、今までの風景と、どこか、よそよそしく馴染んでいない。でも、神棚は、変わらない。
(……みんなが、揃ってる。みんな、健康。本当に、ありがとうございます)
杏子は、静かに、手を合わせた。
制御室、という名の、単なるパソコン置き場と化した控室の隅で、一華は、新しく導入された機材たちを、まるで愛しいペットでも撫でるかのように、嬉々として調整している。
いつものように、練習が終わり、授業が始まる。
休憩時間には、昨日から始まった、先輩たちのための鶴を、みんなが折る。
授業が終われば、また、道場へ。
淡々と、いつもの練習が、進んでいく。
練習を終え、道場の重い戸を閉めると、外は、すっかり、冬の夜気に包まれていた。
吐く息は、真新しいLEDの光を浴びた後では、頼りない街灯の光に、白く、儚く、溶けていく。汗の残る額に、冷たい風が心地よくも、少しだけ、身を引き締めさせる。
杏子は、ちらりと、隣を歩く、親友の顔を見上げた。
「……さっ、行こっか」
その声は、弓を引く時とは違い、少し緊張に震えていた。
「よし。……ま、昨日、話した限りじゃ、冷静に、物事を見てくれる人みたいだ。悪い人じゃ、なさそうだ」
栞代の答えは、いつも通り、簡潔で、少しぶっきらぼうだ。だが、その眼差しには、杏子を気遣う、深い、柔らかな色が、にじんでいた。
二人のやり取りを、数歩後ろで聞いていた真映が、ビクッと、肩を跳ね上げる。
「えっ、ちょ、今から、ですか!? あの、高階会長のお屋敷に、乗り込むんですか!? だったら、わたしも、お供します!」
杏子が、目を瞬かせるよりも早く、栞代の、氷のように冷たい声が、飛んだ。
「却下」
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ、若頭! わたしは、親分の、親分の、忠義のために生きる女ですよ!? あんな、失礼なこと、言われっぱなしで、親分一人を、敵地に行かせるわけにはいきません! ここは、若衆の、わたしの出番! わたしが、体を張って──」
「却下」
二度目は、さらに、短く、鋭かった。
真映は、両手を合わせ、まるで神に祈るかのように、腰を九十度に折り曲げ、必死に食い下がる。
「お願いですってばぁぁ! せめて、お庭の隅に、控えさせていただくだけでも! 何かあったら、すぐに飛び出せるように!」
「……ほんっとうに、お前は……」
栞代は、深いため息をついた。「気持ちは分かった。けどな、ここは、二人で行く。それが、筋だ」
「で、でも……!」
「大丈夫だ。……それとも、オレが、信用できないか?」
その、静かな一言。それを言われてしまっては、もう、真映に、返す言葉はなかった。
彼女は、しゅるしゅると、風船がしぼむみたいに、肩を落とした。
「……うう。親分……。わたし、置いてかれるんですね……?」
杏子は、思わず苦笑いを浮かべた。
「真映、本当に、ありがとう。でも、わたしも、いつまでも、みんなに守られてるだけじゃ、だめだから。……ちょっとは、しっかりしないとね」
けれど、その笑顔の奥には、「高階会長からの、ご指定だったから」という、揺るぎない覚悟が、固まりつつあった。
「安心しろ」
栞代が、最後に、釘を刺すように言った。
「お前の分まで、オレが、親分の隣でしっかり、守ってる。だから、杏子のことは、何も、心配するな」
杏子は、そのやりとりに、小さく、幸せそうに頷いた。
真映は、まだ、未練がましそうに、「はぁぁ……わたしの忠義が……血の涙が……」と、芝居がかった声を上げていたが、すでに、勝負は、ついていた。
こうして、二人きりでの「謝罪」に向うことになった。




