第321話 こけら落としの誓いと、弓道部の仁義 その1
週明けの放課後。
冬の午後の冷たい空気が、改修されたばかりの弓道場に、真新しい木の香りを乗せて張りつめていた。
真新しいLEDの白い光が、射場の木目を鮮やかに浮かび上がらせ、道場の天井を走る鉄骨の梁には、射手の動きを俯瞰で捉えるための最新のカメラが、整然と並んでいる。控室に新設された小さな制御室からは、分析機器の低い唸りが、時折かすかに響いていた。
その日、道場は、生徒たちだけのものではなかった。
工事の完了を祝う「竣工記念式典」のために、光田弓矢会のOB・OG、寄付を惜しまなかった現役生の父兄、そして工事を支えた関係者たちが、ずらりと集まっていた。
拝礼と、簡略化された開式のことばの後、その中央に立ったのは、光田弓矢会会長・高階宗一。
背筋は、磨き上げられた丸太のように真っ直ぐに伸び、その表情は厳格そのもの。一片の笑みも浮かべぬまま、工事関係者への謝辞、記念品の贈呈、そして、会員と父兄への謝辞を、低く、よく通る声で述べていく。
その厳かな空気に、部員たちは、いつも以上に緊張した面持ちで、背筋を伸ばしていた。
「では、最後に、現役の部長に、ひとこと貰うとしようか」
高階の静かな声が、道場に響いた。
「男子部長、山下くん」
呼ばれた男子部長の山下は、そつなく前に進み出ると、用意していたであろう、流れるような感謝の挨拶を述べた。会場は安堵し、穏やかな拍手が一度、満ちた。
そして──。
「次は、女子部長、杏子くん。前に」
式次予定には、一切なかった。
突然の指名に、会場が、わずかに、ざわめく。
杏子は、ビクリと肩を震わせ、驚きに目を見開いた。栞代が、部員一同が心配そうに彼女を見る。杏子は、ゆっくりと、おずおずと、前には出た。だが、その視線は、固く、床に落ちたまま。マイクの前に立っても、声は喉に張り付いて、出てこない。
(ど、どうしよう……。何を、言えば……)
弓を持たない杏子に、真正面から降りかかった予期せぬ重圧。部員全員が、固唾を飲んで彼女を見守っている。
沈黙が、痛いほど道場に響き渡る。
その時だった。
「……なんだ、あれが女子部長か」
「選抜準優勝だなんて、よっぽどまわりが強かったのか?」
高階の傍らに立つ、腰巾着のような取り巻きの男たちから、嘲るような声が、はっきりと漏れた。
「さっきの山下くんとは、雲泥の差だな。やっぱり男は違う」
圧倒的な女子の成績に対する、歪んだ嫉妬。時代、世代では片づけられない発言だった。その、あまりにも無神経な言葉が、杏子の耳に突き刺さった。
その瞬間、会場の空気が、ざわりと揺らぐ。
「──静かに」
鋭い声が、その下卑た囁きを切り捨てた。声の主は、その言葉に、苦々しい表情を向けた、高階、その人だった。
その響きには、怒りとも失望ともつかない、冷徹な厳格さだけがあった。
(……急成長を支えたという、あの中田先生の愛弟子が、どんな人間か、この目で見極めるつもりだった。だが、こんな形で、試すことになるとは)
実は中田先生からも提案を受けていた、突然の指名だった。
胸中に去来する後悔を、高階は、表情に出すことなく、ただ、まっすぐに杏子を注視し続けた。
再び、静寂が訪れる。杏子の両手は、白くなるほど固く握りしめられたまま、震えていた。
その時だった。
「一華」
短く、栞代の声が飛んだ。
その一言で、全てを理解した一華が、すっと、杏子の隣に並び立った。そして、何も持っていなかったはずの手には、いつの間にか、タブレットが握られている。
「──失礼します。マネージャーの、九一華と申します」
冷静な、しかし、どこまでもクリアな声が、マイクを通して響き渡る。
「昨年度の全国選抜大会は三位。今年度の高校総体は準優勝。そして、先の選抜大会も準優勝。どちらも、日本一の鳳城高校に破れましたが、総体決勝では、的中率の差が20%あったものが、杏子部長が加わった、この度の選抜大会では、わずか3.7%の差にまで、追いこんでいます」
OBOGたちが、一斉に目を見開く。
「総体では、諸事情により、杏子部長は団体戦に参加していません。しかし、全員が杏子部長の影響下にあったことは疑いようもありません。つまり、全く同じシステムで練習しているにも関わらず、男子とこの実績の差を生み出したのは、ただ一点。杏子部長が、居たか、居なかったか、です」
一華は、そこで一度言葉を切ると、先ほどの野次の方向を、鋭く睨みつけた。
「この度の、解析システムの導入は、この3.7%の差を埋め、必ずや全国の頂点に立つための、我々にとっての必然です。ご支援いただいた皆様に、心より、深く感謝いたします」
見事なスピーチを終えると、一華は、小さく、杏子の耳元にだけ聞こえる声で、囁いた。
「……栞代さんからです。『目標を、言え』、と」
杏子は、驚いて、顔を上げた。一華が、その瞳を、力強くそして優しく見つめ返す。
(大丈夫です。ここは、的前と一緒です。あなたは、一人で立っているように見えて、一人じゃありません。私たち、全員が、一緒です)
その、声なき声が、杏子の背中を、強く、押した。
杏子は、唇を震わせながらも、マイクを握りしめ、はっきりと、声に出した。
「……金メダルを取って、おばあちゃんに、プレゼントしたいです」
その言葉は、細くとも、決して折れない一本の矢のように、真っ直ぐに、場を貫いた。
会場で、幾人かが、激しく手をたたく。現役生の父兄たち。そして、受験の合間を縫って、駆けつけていた、前部長の冴子、沙月、瑠月の三人。
「よう言うたな!」
「立派や、杏子ちゃん!」
道場に、二つの、ひときわ大きな声が響き渡った。ヒノカンと、らんちゃんだった。二人は、大げさな身振りで、拍手を続けている。
「うちらの時は、あんな、かっこええこと言える子、おらんかったで!」
「そやそや! これ聞けただけで、五十年、長く生きた甲斐があるいうもんや! ええもん聞いたわ!」
「ヒノカン、見栄張ったらあかんっ。あんた、もう70になるやろが」
「あんた、レディーの年は黙っとくもんや!」
その、台風のような二人の声に押されるように、会場全体が、温かい拍手に包まれていった。




