第320話 光田弓矢会、かく語りき~五十年前のやんちゃ姫~
三連休の初日。
光田高校の弓道場は、生徒たちの姿がなく静まり返っている──かと思いきや、普段の練習日とは比べ物にならないほどの、けたたましい金属音に包まれていた。
ガン、ガン、ガン!
天井の鉄骨に、新しいカメラを設置するためのブラケットが、職人たちの手によって次々と打ち付けられていく。その、未来の音とも言える騒音の中。道場の片隅に設えられた会議スペースでは、工事の立ち会いを兼ねた、第一回の「光田弓矢会」の簡単な集まりが開かれていた。
各年代で、時間の都合がついたOBOGの面々が、十数名ほど揃っている。その中心で、厳格そのものの表情をした新会長、高階宗一が、分厚い資料を片手に一同を見回した。
「本日は、お集まりいただき、感謝申し上げる。見ての通り、工事か始まり、順調に進んでおる。準備期間は長かったが、こうして光田弓矢会の支援が形になって実に感慨深い。今日はあくまで立ち会いじゃ。工事の邪魔にならんよう、我々も落ち着いて──」
その、低く、よく通る声を、まるでかき消すかのように。
「いやぁぁぁ〜〜、まーちゃん! ほんまに、まーちゃんやないの! 何年ぶりやの!」
すぱーん!と威勢よく開けて飛び込んできたのは、小柄だが、声の大きさだけなら現役部員の真映にも負けない、火野美佐子──通称、ヒノカンだった。
「あら……ヒノカン!? ほんまに、ヒノカンなん!?」
その声に、それまで静かに座っていた杏子の祖母──雅子が、驚いたように目を丸くする。
「まーちゃん! らんちゃんも来てるんやでー!」
「ええーっ!」
ヒノカンに続いて現れた、背の高い、嵐堂玲子──通称、らんちゃんが、大げさに手を振りながら、杏子の祖母の元へ歩み寄ってきた。
「まーちゃん、ほんまに何年ぶりやろな? 五十年? いや、あんた、全然変わってへんわ!」
「らんちゃんこそ、全然変わらんやんか」
「いやいや〜、もう、すっかりおばあちゃんやで、わたしら」
「そんなもん、みんな一緒やろ!」
ヒノカンが茶化すと、らんちゃんは、ぴしゃりと腰に手を当てた。
「そやけどな、あんたには負けるわ。今やから、はっきり言わせてもらうけどな、あんた、昔から声がでかすぎんねん! 道場ん中で、いっつも目立ちすぎやったんやで!」
「誰がや! らんちゃんかて、試合前やいうのに、控室で騒ぎまくって、中田先生に、何っ回、竹刀でどやされたと思てんねん! わたしは、ちゃーんと覚えてるねんからな!」
「おーおー、ヒノカンにだけは言われたないわ! あんたかて、いっつも勝負が決まったら、すぐ集中力切らして、最後の矢、力抜くやろが! あれで、いっつも先生の機嫌が悪くなるんや! そのとばっちりを、ずーっと受けてたん、私らやで! ほんま、エー加減にしてほしいわ!」
「わたしはな、繊細なんや! 空気を、感じとんねん! あんたみたいに、鈍感な女とはちゃうねん!」
「誰が鈍感や! わたしの、この繊細な心の機微が、あんたにはワカランのか! 鈍感にも、ほどがあんで!」
二人の声は、もはや、工事の金槌の音よりも、道場全体に響き渡る勢いだった。
杏子の祖母は、その変わらないやり取りに、苦笑しながらも、胸の奥が、じんわりと温かくなっていくのを感じていた。
(……そうそう、この感じ)
高校時代も、いつも、いつも、こうだった。ヒノカンと、らんちゃんは、台風の目のように、道場の空気をかき乱していた。
ずうずうしくて、うるさくて、傍若無人で。
……でも、あの全国大会の決勝で、自分たちが負けて、銀メダルに終わった時。誰よりも、いつまでも、悔し涙を流していたのは、この二人だった。
そして、案の定──。
「……おい。そこの二人。うるさい」
低く、鋭い、地を這うような声が、二人の会話を切り裂いた。
高階宗一である。
二人は、びくりと肩をすくめたが、次の瞬間には、また顔を見合わせて、堪えきれずに笑い出した。
「あっははは! 高階部長、昔と、まったく同じ叱り方や〜!」
「ほんまや! 五十年経っても、叱られてんの、わたしらかいな!」
「なに言うてんの、らんちゃん。これ、わざとやんか。むかっしから、このパターンやん。わたしたちがわざと騒がしくして、高階部長の、この声で、場を締めてもらう。これがやりたかったんや〜」
「そうそう。なんせ、高階部長、ヒノカンのこと、好きやったからなあ。いっつも、気にかけて、目で追ってたよな〜」
「しゃあないやろ、らんちゃん。なんせ、わたし、あの頃、弓道部のマドンナやったからなあ! わたしのこと好きやったん。高階部長だけちゃうで。男子全員や」
高階会長の、額の青筋が、ぴくりと動いた。その時、三人の後ろから、さらに別の、静かだが、有無を言わせぬ声がした。
「あんたら、ええ加減にしときや」
火野美佐子と嵐堂玲子の一つ上の先輩であり、二人が、唯一、頭の上がらない、当時の女子部部長、桐原佳奈だった。彼女は、そのまま、二人の首根っこを掴む勢いで、会議室の外へと引きずり出していく。
杏子の祖母は、慌てて、その三人の後を追った。
「桐原先輩。お疲れさまです」
外の冷たい空気に触れ、ようやく、二人は少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
「あんたら、いい加減にしときや。まーちゃんの、可愛いお孫さんに、恥ずかしい想いさせたらあかんで」
「あ、そうや、部長。聞きました? まーちゃんのお孫さん、めっちゃ、おばあちゃん孝行の、ええ子やって」
「なんでも、わたしらが、あの時、油断して負けて、銀メダルに終わった、あの全国大会の、金メダルを取るのが目標なんやって」
「まあなあ。あの時、わたしと、らんちゃんの、どっちかが、競射で中ててたら、また延長戦に持ち込めたのに。わたしらが、足ひっぱったもんなあ」
「そやなあ。……でも、よう考えたら、まーちゃんも悪いわ。わたしらが外したんやから、まーちゃんも、一緒に外してくれたら、良かったんよ。じゃあ、みんな一緒やったんや」
「そやそや! 当てる時も、外すときも、いつも一緒や、いう、あの時の誓いを破ったん、まーちゃんやで!」
口から発せられる言葉は、相変わらず軽かったが、その声の調子は、確かに、少しだけ沈んでいた。五十年経っても、あの日の悔しさは、彼女たちの胸に、小さな棘として、残り続けていたのだ。
「そんなことないよ」
杏子の祖母は、笑顔で、きっぱりと返した。
「団体戦の結果に、だれの責任とか、ない。あの時の、わたしたち全員の、いや、弓道部全員の思いの結果があれだった。ただ、それだけよ」
その、凛とした声に、二人は、一瞬、目を丸くした。
「……まーちゃん。あんた、五十年も経ったら、やっと、まともに口がきけるようになったんかいな」
「こら、ヒノカン! まーちゃんは、昔から、一言で、ぐさっと刺すタイプやったやろ! 私らみたいな、集中乱射じゃなくて、一撃必殺タイプやったんや! 注意せな、やられるで!」
「ああ、そやった! この、人畜無害です、みたいな、大人しい顔して、平気で、わたらの矢を入れ替えたり、ゼッケンに変な川柳を落書きしたり、矢筒に変なシール貼ったり、靴のひもに、こっそりイタズラしたり……! ほんま、この中で、一番タチが悪かったんは、まーちゃんやからなあ!」
「そうそう。中田先生、よう言うてたわ。『やんちゃじゃなけりゃ、弓は当たらん』て。だから、わたしらは、先生に言われて、わざと、無理やり、『やんちゃ』になろうとしとったけどな。まーちゃんだけは、一人、本物の、天然の『やんちゃ』やったからなあ。そりゃ、敵わんわ」
「……こりゃ、まーちゃんのお孫さんも、絶対に、相当の『やんちゃ』に違いあらへんで。来週、会えるの、楽しみやわぁ」
「気ぃつけなあかんで、ヒノカン。わたしら、気が小さいから、あの親子二代の『一撃必殺』で刺されたら、一生もんの傷になるで」
二人は、いつまでも、終わらない青春の続きのように、そう言って、笑い合っていた。
桐原は、そんな二人の姿に、やれやれとため息をつくと、改めて、杏子の祖母に向き直った。
「……杏子ちゃんの活躍のおかげで、今まで、中途半端やった、この『弓矢会』が、きっちりと機能するようになってきたんや。まーちゃん、ほんまに、おおきにやで」
「あ、いや、わたしは、なにも……」
「来週、総会を開く。その時に、杏子ちゃんにも、挨拶してもらうことになっとる。……驚かせる予定やから、まーちゃんから、絶対に、話ししたらあかんで」
「は、はいっ」
当時のままの、厳しい口調での命令。杏子の祖母は、背筋を伸ばし、まるで、あの頃の、一介の部員に戻ったかのように、小さく、しかし、力強く、頷いた。




