第313話 客間の誓いと、心の基準点
夜が更け、杏子の家の客間は、さながら女子合宿の様相を呈していた。
畳の上に敷き詰められた布団は、もう誰がどこに寝るのか、厳密なルールなど存在しないかのような、幸福な雑然ぶりだ。ふわふわの布団の海を見つけた楓が、歓声を上げてその中心に飛び込み、ごろごろと転がり回る。葵は、自分の荷物をしっかりと布団の端に置き、今夜の寝床を冷静に確保していた。
その光景を眺めながら、一華が、さきほどの興奮の余韻を噛みしめるように呟いた。
「……栞代さん。やはり、このお宅は、研究材料の宝庫ですね」
「だろ? まあ、おじいちゃんは慣れたら分かりやすいよ。オレも、最後の一枚は50%の確率で当てられると思うぜ」
「いえ、栞代さん。それは確率論的に、ただの期待値そのままですから」
「細かいことは、いーんだよ」
栞代は、一華の背中を、親しみを込めてバンバンと叩きながら笑う。一華は、そのやり取りの中で、昼間、自分が杏子を傷つけてしまった出来事を、この二人が(少なくとも表面上は)全く引きずっていないことに気づき、心の底から安堵していた。
「……なんか、本当に合宿みたいだな」
つぐみが、自分の枕を抱えながら、どこか懐かしそうな声で呟いた。
「合宿みたいっていうか、もはや部活の家出組みたいになってるけどな」
栞代が、枕を壁に立てかけて胡坐をかき、腕を組む。「うちの合宿は、基本、個室だからなあ。考えたら、随分と贅沢なもんだ」
「いえ、それは単純に、他校に比べて部員の総数が少ないからです」
一華が、すかさずデータを補足した。
その時、布団の中心で丸くなっていた楓が、ぱっと上半身を起こし、不安そうな瞳で杏子を見つめた。
「あの……部長。明日、試合ですけど……。わたし、杏子部長の足を引っ張ってしまったら、どうしよう……!」
その、心からの不安に、布団の隣にいた杏子が、にこりと優しく笑いかけた。
「大丈夫だよ、楓。楓は、楓の一番の姿を、わたしに見せてくれたら、それでいいんだから。当たるかどうかは、本当に、どうでもいいの。楓の、一番綺麗な射を、見せてね」
その、全てを包み込むような声に、楓は一瞬で顔を真っ赤にすると、「は、はいぃっ……!」と裏返った声で頷き、枕をぎゅっと抱きしめた。そして、そのまま、じわじわと、杏子の布団に向かって、にじり寄っていく。
つぐみは、その微笑ましいやり取りを見守りながら、隣で同じように目を輝かせている自分の後輩、葵の頭を、軽く小突いた。
「なに、口開けてにやにやしてんだよ」
「だ、だって! あの、つぐみ先輩が、いつもあれほど褒めまくってる、あの、今や生きる伝説の雲類鷲麗霞さんさえも『いつか絶対に越える』って言ってた、あの杏子さんと、明日本気で対決するんですよ!? 楽しみで、仕方ないじゃないですか!」
「こ、こら! 葵! イランことまで、大きな声で言わんでいい! それに、お前も試合に出るんだから、自分のことに集中しろ!」
「はいっ!……え? あ、そっか、わたしも出るんでしたっけ? すみません、先輩のガチの勝負が見られると思ったら、自分の記憶が飛んでましたっ!」
葵の、あまりにも真っ直ぐな言葉に、つぐみは、呆れ半分、そして少し照れたように、ふっと笑みをこぼした。
栞代は、その賑やかな声をBGMにするように、ごろんと布団に横になり、客間の木目の天井を、じっと見つめていた。
(……雲類鷲麗霞を越える、か。考えたら、つぐみは、昔からずっと杏子を見てきた。あいつが、杏子の本当の力を、一番分かってるのかもしれないな)
天井から目を逸らさないまま、栞代は、親友へと静かに声をかけた。
「……なぁ、つぐみ」
「ん?」
「杏子、ほんと、変わったぜ。もちろん、いい方向に、な」
その言葉に、つぐみは、何も答えず、ただ静かに耳を傾けていた。
「以前の杏子だったら、対戦相手がお前だったり、引退した瑠月さんだったりしたら、もう、どうしていいか分からなくて、こっちが心配になるくらい、動揺してた。外から見てても、丸分かりだったよ」
「……ああ。知ってる」
「だが、お前の姿が、杏子を覚醒させたんだ。一昨年の、あの鬼気迫る直接対決。そして、去年のブロック大会での、あの姉妹対決……。あの時の、研ぎ澄まされたお前を見て、杏子は、本当に羨ましそうだった」
「……そうか」
「あの試合の途中、杏子は、もう、いても立ってもいられなくなったみたいで。試合を見届けることもなく、道場の隅で、ひたすら素引きを繰り返してた。……それを見て、おじいちゃんもおばあちゃんも、泣いてたよ」
静かな声でそこまで言って、つぐみが、ふっと笑う気配がした。
「……お前もだろ、栞代」
「……っ! オ、オレは、別に、泣いてなんかねーよ!」
照れからか、栞代は、つっけんどんにそう返した。
「ただ、ほんと、そこまで他人の射を見て、素直に感じ取れる、あの純粋さを見ると……まあ、幼稚園児にも、いいところはあるんだなって、思っただけだ。弓以外は、まるっきり幼稚園児にも劣るけど、弓のことを考えてる時だけは……まあ、小学生くらいには、なるかな」
「いや、それ、ちょっと言い過ぎだろ。せめて、中学入学ぐらいは、させてやれよ」
「ほとんど違わねーだろ、それ」
二人は、顔を見合わせて、くくっ、と、懐かしい秘密を共有するように笑い合った。
その、部屋の対角線上で。
一華は、布団の端でタブレットの薄明かりを顔に受け、目をぎらぎらと輝かせていた。
(小鳥遊つぐみさんの射が、間近で観測できる……! 因縁の相手であり、親友でもある杏子部長との、練習試合。こんな絶好のチャンス、めったにない。これは、ほぼ一騎討ちと言っていい。データ収集の価値は、計り知れない……!)
「……一華、そろそろ寝ろよ。その光、バレバレだぞ」
栞代の、呆れたようなツッコミが飛ぶ。
「は、はいっ……」
一華は、そう答えつつも、その指先は、分析ソフトの画面を、しっかりとスクロールしていた。
杏子は、その全てのやり取りを、布団の中から、ぼんやりと、しかし、愛おしそうに聞いていた。
──ああ、そういえば。
つぐみが、まだ光田にいた頃。一昨年の、あの寒い冬。栞代と、つぐみと、三人で。こうして同じ布団を並べて、他愛もない話をして、笑いながら眠りに落ちた夜が何度もあった。いつまでも変わらず続くと思ってた。
でも・・・・・。
あの時の、寂しさと、それでも確かにそこにあった温もりの記憶が、胸の奥で、じんわりと蘇る。
その、少しだけしんみりとした感傷。
けれど、それは、布団のあちこちから聞こえてくる、楓と葵のひそやかな囁き声や、栞代とつぐみの軽口を叩き合う声、そして、一華がタブレットを操作する小さな電子音という、今の、この幸福なカオスによって、すぐに、やわらかく溶かされていった。
(……あの冬、三人で守ろうとしていた小さな火は、消えてないんだ)
それは、いつの間にか、こんなにも多くの仲間たちを包み込む、大きな、温かい焚き火になっていた。
(……ああ、なんて、幸せなんだろう)
杏子は、その温かい混沌の中で、誰にも聞こえないように小さく呟くと、明日への尽きない期待を胸に、ゆっくりと目を閉じた。




