第311話 三連休狂詩曲(ラプソディ)~集結する惑星たち~
冬の夕暮れは早く、中田先生の道場での熱のこもった練習を終える頃には、空はすでに深い藍色に染まり始めていた。杏子の祖父が、約束通り迎えに来てくれた車に、六人の少女たち──杏子、栞代、楓、一華、そして、つぐみと葵──が、わいわいと賑やかに乗り込む。
車内は、すぐに熱気で満たされた。祖父は、久しぶりに再会したつぐみと話せるのが、よほど嬉しいらしい。
「いやあ、つぐみさん。去年のあのブロック大会の決勝は、本当にすごかった。万全じゃない状態の中で、あの気迫じゃ。杏子を始め、コーチと共に、まっすぐに向かってくる。負けても失うものがないチャレンジャーだった妹のつばめさんは、本当に怖かっただろう」
「……はい。あの時のつばめは、わたしよりも、ずっと強かったです」
つぐみは、静かに、しかしはっきりと頷いた。
「実はわたし、あの頃から、ずっと練習のビデオを送って、杏子に見てもらってたんです。杏子の見る目は、ピクセル単位ですからねっ」
「ほう! そうだったのか!」
祖父は、改めて感動したように声を上げた。
「つぐみさん、選抜大会の時も、まだ一昨年のブロック大会の調子には届いていないと思ったんじゃが、どうなのかな?」
「おじいちゃん、詳しくなったねえ。たしかにあの時はもう少しって感じだったけど、随分もどったよ」つぐみが応えた。
「……うん。だけど、あの、本調子じゃないつぐみさんがあそこまで出来たのは、やはりつばめさんの力も大きかったじゃろうな」
「そうだと思う。つばめに自分の全てを見せたかった」
「心技体が一番凄かったのは、一昨年のブロック大会で、杏子を破った時じゃったがな」
二人の会話に、杏子も静かに頷く。あの頃のつぐみは、もう二度と杏子と弓を引けないかもしれないという、悲壮なまでの執念を矢に込めていた。
「だが、つぐみさん。あの時の杏子は、まだまだ発展途上だったのをわすれちゃいかんぞ」。祖父はやはり、当然だが杏子が可愛いようだ。
「おじいちゃん、十分分かってるよ。だけど、選抜大会の杏子を見ると、一つ乗り越えたようじゃない。だから、今日楽しみにしてたんだ。明日、試合することになったんだ。おじいちゃんも見に来なよ」
変わらぬ強気なつぐみを見て、杏子は居心地が良かった。
そんな会話をしているうちに、車は、見慣れた杏子の家の前に滑り込んだ。
「さあ、着いたぞ! みんな、腹が減っとるじゃろう!」
祖父の声に、六人がぞろぞろと車から降りた、まさにその時だった。
「「「あっ!!」」」
通りの向こうから、カフェの紙袋をぶら下げた、あかね、まゆ、真映、そして、つばめの一団が歩いてくるのが見えた。
「なんですか、その大所帯は! まさか、これから全員で部長の家に雪崩れ込む気ですか! ずるい!」
真映が、即座に状況を察知し、声を上げる。
「うわっ、ほんまや! つぐみまでおるし!」
あかねも驚きの声を上げた。
「おまえらこそ、来るなんて予定になかっただろ」と栞代が応戦する。
「おお、みんな、ちょうどええところに来た! 今から茶会じゃ!」
祖父が、嬉しそうに手招きをする。かくして、杏子組とあかね組は、図らずも杏子の家の玄関で合流した。
「「お邪魔しまーす!!」」
玄関が、女子高生たちの声で飽和する。その、あまりの賑やかさに杏子が目を回していると、そこへ、さらに玄関のチャイムが鳴った。
「はいはい」と祖母が出ると、そこに立っていたのは、大きなコーヒーポットを抱えたエリックと、ソフィア、そして紬だった。
「……え?」
杏子の目が、点になる。
ソフィアは、玄関に溢れかえる靴を見て、きょとんとした。
「あれ? もしかして、わたしたち、何かのお祭りを、邪魔しましたか?」
「いや、あの……」
「リーサが、柚子の和菓子とカステラをはじめ、お菓子をたっぷりと、張り切って作りすぎてしまってね。杏子さんのお宅にも、ぜひお裾分けを、と。それから、わたしのコーヒーも、ぜひご一緒に」エリックが伝えた。
かくして、全員集合とあいなった。
光田高校弓道部女子部員、全員。そして、つぐみと葵、さらにはソフィアの祖父までが杏子の家のに、一堂に会したのである。
「なんじゃ、こりゃあ!」
祖父は、その、あまりにも幸せなカオスを前に、歓喜の声を上げた。
リビングだけでは狭く、隣接する襖を外し、大部屋を作る。そして、あっという間に熱気に包まれた。
エリックが、自慢のコーヒーをカップに注いでいく。その、香ばしくも深いアロマが、部屋を満たした。
「ふん。まあ、確かに美味い」
一口飲んだ杏子の祖父が、すぐさま対抗心を燃やす。「じゃがな! わしの淹れる紅茶か゛、世界一なんじゃ!」
「おお、紅茶。それも、いいですね」
穏やかに余裕を見せて微笑むエリック。ここに、ジジイ同士の、プライドを賭けた第二ラウンドが始まった。
「よし! みんな、今からわしの紅茶と、エリックさんのコーヒー、どっちが美味いか、投票で決めようじゃないか!」
真映が、面白そうにそう言い出すと、その場の全員が、一瞬、顔を見合わせた。
「よせ、真映」
栞代が、その無邪気な提案を、即座に、しかし冷静に制した。
「そんな、後々まで禍根を残すような恐ろしいことを、軽々しく口にするな。どっちが勝っても、多分地球が滅びる。……どっちも、世界一。それでいいだろ」
その、あまりにも的を射た仲裁に、両者は「「うむ」」と頷き、痛み分けとなった。
一時間ほど、全員で歌う者(真映)と、それを手拍子で応援する者、お菓子に夢中な者(まゆ、楓、葵)、そして、その全てを撮影する者(一華)。
大騒ぎをした後、ソフィアと紬は、「それでは、私たちは、文化研究の続きに戻りますので」と、エリックと共に帰っていった。エリックは、空になったコーヒーポットに、杏子の祖母にこっそり頼んで、祖父の淹れた紅茶を並々と注いでもらっていた。
「あー、飽きないもんですかねえ、アニメ」
真映が二人に呟くと、あかねが「杏子が弓に飽きひんのと、似たようなもんやろ」と笑う。
「紬、どう思う?」
栞代が尋ねると、紬は、返した。
「それは、わたしの課題ではありません」
そして、あかね、まゆ、真映、つばめを、杏子の祖父の車で家まで送ることになった。杏子も、もちろん同乗する。
つばめと離れる時、つぐみは、まだスランプから抜け出せずに俯いている妹のつばめに、静かに、しかし強く、声をかけた。
「つばめ。必ず、もう一度、勝負しよう。だから、お前も、さっさと上がってこいよ」
その言葉に、つばめの瞳が、わずかに光を取り戻した。
そして、残った、栞代、つぐみ、楓、一華、葵は、杏子の祖母を囲み、静かな時間を過ごしていた。
つぐみが、厳敷高校であんな目に遭っていたとは。その苦労話を聞き出そうとするが、つぐみは、もう前しか向いていない。
「過去の話は、もういいよ」
彼女は、あっさりとそう言うと、杏子の祖母に向き直った。
「おばあちゃん。わたし、杏子と個人戦で対戦できるのが、本当に、楽しみなんです。杏子が変わったのは、選抜大会の団体戦でも、よく分かりました。……あの時の杏子なら、もう、わたしにも手を抜いたりしない。その力が本物かどうか、この手で、確かめたいんです」
それは、親友への、最大の信頼を込めた、静かな戦線布告だった。
祖母は、その言葉を、黙って、深く頷きながら受け止めた。「手を抜く、のとは違うんだけど。でも。ええ。きっと、今の最高の杏子を見ることができると思うわ」
その真剣な空気の中、葵が、どれだけつぐみを尊敬しているかを語り始めると、止まらなくなった。どれだけ練習しているか。どれだけ努力しているか。
「葵さんも、楓の杏子Loveと、いい勝負してるな」
栞代が呟くと、楓は、むきになって反論した。
「いえ! わたしの杏子部長への愛の強さには、絶対に敵いませんよ!」
「いいえ! わたしの方が、つぐみ先輩への想いは、もっと広くて深いです!」
二人が、バチバチと火花を散らし始めた、まさにその時。
みんなを送って行った、祖父と杏子が、リビングに戻ってきた。
その、なんとも言えない奇妙な緊張感を感じ取り、杏子が「あれ? 何かあったの?」と首をかしげる。祖父は、この空気の原因は分らなかったが、火花が散っているのは十分理解した。そして、これ幸いと、にやりと笑った。
「よし! ごちゃごちゃ言わんと、大富豪で勝負じゃ!」
祖父は、そう言って、奥からトランプを取り出してきた。。祖父、杏子、栞代、つぐみ、葵、一華、楓。「これだけ居ると、楽しいのう」。
口八丁手八丁で場をかき回す祖父に、確率と統計で冷静に最強の手を導き出そうとする一華が食らいつく。
「さあ、そろそろご飯にしましょう。」
トランプには参加せず、夕食の用意をしていた祖母のその声が掛からなければ、あの二組の意地の張り合いは、朝まで終わらなかったに違いない。
栞代、つぐみ、楓、葵、そして杏子は、心の底からほっとした。
そして、食卓には、再び、これでもかというほどの、温かい料理が並んでいた。




