第310話 若頭と直参と、心の基準点
ゆっくりと、午後の練習の準備運動をしていると、道場の入り口から、待ちわびた声がした。
「杏子! ひさしぶりっ!」
小鳥遊つぐみだ。その後ろには、少し緊張した面持ちの後輩、篠森葵が続いている。
「つぐみっ!」
少し元気を失っていた杏子が、幼子の特権、猫の目のように機嫌を戻し、満面の笑顔で、旧友のもとへ駆け寄る。栞代も、それに続き、言葉少なに、しかし、その再会を心から喜ぶように、ハグを交わし、力強く握手をした。
杏子が、楓と一華を二人に紹介し、つぐみもまた、葵を紹介する。互いに自己紹介を済ませた後、葵が、感心したように言った。
「同じ弓道部なのに、さっきラーメン屋さんで会った人たちとは、全然、雰囲気が違いますね」
「ああ。こっちは、まあ、『マジメ組』ってところか?」
つぐみはそう言うと、悪戯っぽく笑った。「だがな、葵。見た目や雰囲気は違っても、大事なところは、みんなちゃんと持ってる。なんせ、みんな、『杏子一家』だからな」
「杏子一家?」
栞代が聞き返す。
「そうだ。真映って子が言ってた。でも、なんだか妙に、納得しちゃったんだよ」
「また、あいつは、ろくでもないことを……」
栞代は苦笑しながらも、まんざらでもない、といった表情だ。「……じゃあ、さしずめオレは、さしずめ、一家の『若頭』ってところか?」
「いえ、栞代先輩は、『直参』でしょう」
一華が、冷静に、しかし的確に、その序列を訂正する。
「その違いが、全くもって分からんわ!」
栞代のツッコミに、道場は、またしても大きな笑い声で包まれた。
午後の練習は、人数が増えたことで、より一層の活気を帯びていた。
つぐみの射は、つい三週間ほど前の選抜大会の時より、またひとつ自分の射を取り戻していたようだった。なにも言わないが、相当練習をしているのだろう。むしろ、余計なものが削ぎ落とされ、本来の彼女が持つ、鋭く、美しい射型に辿りつき、さらなる場所へ辿りつこうとしているようだった。
栞代が、つぐみに熱心に話しかけている。栞代が今、習得しようとしている斜面打起しは、元々、つぐみが得意とする射型でもある。一足先を行く先輩であり、好敵手でもあり
親友でもある彼女に、栞代は、貪欲に、アドバイスを求めていた。
その一方で、葵は、目の前で繰り広げられる杏子の射に、完全に心を奪われていた。
「……杏子さん。本当に、すごいですね……」
「でしょ、でしょ!」
楓が、まるで自分のことのように、嬉しそうに鼻を高くする。
その様子を見てか、中田先生も、いつの間にか母屋から出てきて、楓と葵のそばに立っていた。
「顧問の先生と、違う表現があったら、教えてね。普段は、どんなことを言われてる?」
相手を尊重する、優しく控えめなに指導する。二人は、緊張しながらも、一つ一つの言葉を、必死に心に刻みつけていた。
そんな様子を見ながら、杏子は少し旋毛を曲げる。
「中田先生、わたしの時と大違いじゃないですかあっ」
「何行ってるの。杏子は完全な愛弟子だったからよ。それでも、ちょっとお尻を蹴りあげたぐらいだったじゃないの。杏子のおばあちゃんには、そんなものじゃなかったのよ~っ」
と、中田先生はケラケラ笑う。
ああ、その表情。最初に先生に会ったときと同じだ。杏子は嬉しくなった。
楓と葵が、顔を真っ青にして杏子に視線を向けると、杏子は「うそよ、うそ」と手を軽く降って笑った。
つぐみは、栞代を気遣いつつ、自分も矢数を重ねていく。そして、ふと、杏子に目をやった。
周囲がどれだけ騒がしくても、環境がどれだけ変わっても、結局は、いつもと同じ姿勢で、いつもと同じことを、ただ淡々と繰り返す、親友の姿。ほんとに変わらないな。
ずっと味方で居たかったな。いや、高校は別々に離れても、対戦することがあっても、それでもずっと味方でいることには変わりないんだ。
午前中の練習から一変して忙しく活気に満ちた練習風景を見ながら、一華は、先ほどの栞代の言葉を、改めて反芻していた。
(『杏子部長を見ろ』、か……)
そうだ。部長は、変わらない。決して、ブレない。
だからこそ、私たちは、部長との距離を計って、いつもと違う自分の心の揺らぎや、フォームの僅かなズレに、気づくことができるのだ。
彼女は、まるで、絶対的な座標を示す、北極星。あるいは、全ての数値を測るための、完璧な「基準点」。メートル原器。
(……それは、もしかしたら、わたし自身にも、言えること、なのかもしれない。わたしがぶれたら、なんにもならない。数値という客観的データを扱うのだから、いっそう慎重にならないと)
それに。
一華は一人、練習の輪から外れていた。ついさきほどの、自分の口から放たれた、あの棘のような言葉を思い返し、胸の奥が、じくじくと鈍く痛んだ。
――あの人は、強い。
矢をつがえ、的前に立った瞬間、あの人は、この世の誰よりも揺らがない、完璧な『基準点』になる。
だが、それだけでは無かった。
あの人は、その常軌を逸した強さのすべてを、あの二十八メートル先に立つ的に向けて、一滴残らず注ぎ込んでしまうのかもしれてない。
だから、弓を離れた途端、その強さがまるで空っぽになるみたいに、ただ風にあおられる花のように、どこまでも頼りなく、脆くなる。
だから、栞代先輩は、ずっとあの人の隣に立ってきたんだ。
いや、栞代先輩だけじゃない。前部長の冴子さんも、瑠月さんも、常に杏子部長を気にかけてきた。
あの強すぎる光を守る、盾として。
けれど、それだけじゃ足りない。あの『ガラス』の心を、あんな風に無防備に晒させてしまってはいけない。そのことが影響して矢が乱れるなら、まだわかる。でも部長はそうじゃない。全てを飲み込んで的に向うんだ。
部長を守れるのは、栞代先輩だけじゃない。データで武装するこの私も、その一人にならなければいけなかったのに。
「……もう二度と。絶対にしない」
小さく呟いたその言葉は、自分自身への、痛みを伴った誓いでもあった。
冷たいデータや、客観的な数字を見ているだけでは、あの人を本当に『解析』することはできない。あの人を本当に支えるのは、そんな無機質なものではないのだ。
温かな心で、そのガラスの脆さごと、支える存在に。
一華の胸の奥で、固い決意が、静かに、そして確かに灯った。
夕方。練習を終え、スマートフォンを確認すると、あかねたちからのLINE通知でいっぱいになっていた。
『第二ラウンド! カフェにて!』というメッセージと共に、お洒落なケーキと、満面の笑みを浮かべた四人の写真が、何枚も送られてきている。
「……あいつら、しっかり楽しんでるようだな」
栞代が呟くと、それぞれが自分のスマートフォンを覗き込みながら、頷いている。
「でも、わたしたちも、ほんとうに、楽しかったよね」
杏子が、心からの笑顔でそう言うと、
「はいっ!」
楓が、誰よりも大きな声で、それに続いた。
杏子のその言葉に、一華は救われた思いだった。
道場の片付けをしていると、中田先生が、つぐみと葵に、明日も来るのかどうかをもう一度確認してから、全員に向かって、静かに告げた。
「……明日は、試合をしよう」
もともと、杏子との手合わせを望んでいたつぐみは、「待ってました」と言わんばかりに、目を輝かせた。
「杏子と楓の組。そして、つぐみと葵の組で」
中田先生がそう付け足すと、それ以外に選択肢がないにも関わらず、楓と葵は、あらためて、同時に、戸惑った声を上げた。
「えっ!? わ、わたしで、いいんでしょうか……?」
その、緊張で固まる二人の後輩の肩を、栞代が、ぽん、と力強く、そして優しく叩いた。
「いいんだよ、お前たちで。……最高の試合に、なるさ」




