第309話 弓を置いた、ガラスの部長
矢を収めた道場に、しんとした静けさが戻る。冬の午後の柔らかな日差しが、縁側に腰を下ろす四人の少女の髪を、優しく照らしていた。宝石箱のようなお弁当の温もりは、まだお腹の底に、そして心の内に、じんわりと残っている。
昼食後の、少しだけ眠気を誘う穏やかな時間。一華が、おもむろにタブレットを取り出し、その静寂を破った。
「楓さん。午前の射のデータです」
画面には、先ほどまでの楓のフォームが、様々な角度から映し出されていた。
「やはり、的中率が安定しません。大きな修正点は、いつも指摘している通り、ここです」
一華の指が、画面上の一点をタップする。その声は、医者が診断結果を告げるように、冷静で、一切の感情が乗っていない。その厳しさが、かえって楓の心を萎縮させた。
「一華、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
杏子が、楓の肩をそっと抱き寄せるように、優しく割って入った。
「弓は、すぐに上手くなるものじゃないから。何度も何度も、治ったり、また元に戻ったりしながら、少しずつ、自分のものになっていくんだよ。だから、大丈夫」
その、春の陽だまりのような声に、楓の強張っていた表情が、ふっと和らぐ。
「はいっ、部長……!」
その、いちいち感動する後輩の姿に、栞代は、呆れたように、しかし温かい眼差しを向けた。
「おい、楓。いつものクラブ活動では、お前、もっと平常心で引いてるだろ? そもそも、弓道っていうのは、平常心が何よりも大事な武道なんだぞ」
「はいっ! 普段からこうして、杏子部長と栞代先輩の側にいさせていただくことで、私の心も日々、鍛錬されております! ありがとうございます!」
「……お、おう」
その、どこかズレた感謝の言葉に、一華が、さらに冷静な分析を重ねた。
「ですが、的中率は、明確に落ちています。試合では、今日以上の緊張状態が予測されます。通常、緊張はパフォーマンスを低下させますが、稀に、それを力に変えて向上させるタイプの人間もいます。……栞代先輩は、その典型です。何か、アドバイスしてあげてください」
不意に話を振られた栞代は、少しだけ考える素振りを見せ、そして、きっぱりと言った。
「杏子を見てたら、それでいいんだよ」
その、あまりにも感覚的な答えに、一華の眉が、ぴくりと動いた。
「うっ……ですが、先輩。私たち部員は、全員、常に杏子部長を見ています」
「もっと、見るんだ」
「ううっ……それは、視線の動きを解析する、アイトラッキング装置の導入が必要になる、ということでしょうか?」
「いや、違う。心で、見るんだよっ」
「うううっ……っ! そんな、非科学的で、論証不可能なことを、軽々しく頼られても、困ります……!」
二人の間に、火花が散る、ということはない。むしろ、穏やかに話し合っているだけだ。けれど、静かだが、交わろうとしない平行線。それを見て、杏子は、おろおろと仲裁に入ろうとした。
「ちょ、ちょっと、二人とも……」
杏子がそう言いかけると・・・・。
「いつもコンディションに変化のない、規格外の人は、少し黙っていてくださいっ!」
分析不能な部長への、溜まりに溜まった苛立ちが、つい、表面化してしまったようだった。
「ちょ、ちょっと、一華!」
楓が、慌てて二人を止めようとした、まさにその時。
全員のスマートフォンのLINE通知音が、同時に、軽やかに鳴り響いた。
栞代が、まず自分の画面を見る。そこには、あかねからの、賑やかなラーメン屋での集合写真が投稿されていた。
「お。つぐみ、もう合流してるぞ。……ん? 隣にいるの、誰だ? 知らない子を連れてきてるな」
「……ラーメン。知っていましたけど、アスリートの食事としては、やはり相応しくありませんね。データ的にも、塩分と脂質の過剰摂取は……。やはり、あの場で止めるべきでした」
一華が、今度はそちらに分析の矛先を向けると、栞代が、ニヤリと笑って切り返した。
「いや、一華。お前だって、ハンバーガーとか、結構ジャンキーなもの、好きだろ?」
「わ、わたしは、いいんですっっ!」
真っ赤になって慌てる一華の、その年相応の姿を見て、杏子と楓は、思わず笑い声を上げてしまった。少しピリッとしていた道場の空気が、一瞬にして、いつもの温かいものに戻っていく。
休憩を終わろうとする道場に、再び張りつめた静けさが戻りつつあった。
畳の上に残る弁当の香りも、少しずつ薄れていく。
栞代が横目で一華を見て、無言で顎を杏子の方へ動かした。
「……おい」
その一言に、一華はすぐ悟り、小さく頷いた。
杏子は縁側の端に座り、弓を持たぬ両手を膝の上でぎゅっと握りしめていた。
視線は下を向いたまま。肩がかすかに上下しているのを見て、一華は息をのんだ。
近づくと、杏子の動揺が痛いほど分かった。
「部長」
一華は足音を忍ばせて近づき、膝を折った。
「……さっき、ごめんなさい」
杏子はぱちりと目を瞬かせた。
気丈に笑おうとするが、視線は泳ぎ、声はわずかに震えていた。
「ううん、いいのよ、一華。わたし、ちょっと驚いただけだから……」
その姿に、一華の胸はきゅうと締め付けられた。
弓を握るときは誰よりも揺るがないのに、弓を離すと、こんなにも華奢で脆く、そして優しい。
その落差を知りながら、言葉を突き刺してしまった自分の未熟さが、堪らなく恥ずかしい。
「違います」
一華は深く頭を下げた。
「悪いのは私です。……あんな言い方、するべきじゃありませんでした」
杏子は戸惑いながらも、ふわりと微笑んで首を横に振った。
「じゃあ……どっちも悪くなかったことにしよ。……それで、いいでしょ?」
その無邪気さに、一華は返す言葉をなくし、ただ「はい」とだけ答えた。
一華は少し離れて見ていた栞代のところに戻る。栞代が、すっと立ち上がり、声を投げる。
「一華」
その声音は厳しくも優しい。
「杏子に乱暴な言葉使いは二度とするなよ。……あいつ、弓を持たなきゃ、ガラスなんだから。知ってるだろ」
「……はい」
一華は真剣に背筋を伸ばし、深く頷いた。
杏子のところには楓が駆け寄り、「ラーメン美味しそうでしたね~。今度ぜひ一緒に行きましょう、杏子部長。奢りますよっ」
「後輩に奢ってもらう訳にはいかないよおっ」
杏子は困ったように笑い、けれどその頬はまだ赤く、涙の余韻を隠しきれていなかった。
ゆっくりと、午後の練習の準備運動をしていると、道場の入り口から、待ちわびた声がした。
「杏子! ひさしぶりっ!」




