第308話 師の道場と、宝石箱のお弁当
三連休の初日。
杏子の祖父の車が、中田先生の道場の前に静かに停まった。門をくぐると、そこはまるで時間と空気が切り離されたような、静謐な空間だった。手入れの行き届いた庭の松の木が、冬の厳しい光の中で、深い緑の影を落としている。
「おはようございます」
杏子が、慣れた様子で道場の引き戸を開ける。その声に応えるように、奥の母屋から、柔和な表情の中田先生が姿を現した。
「杏子。いらっしゃい」
「先生、よろしくお願いします」
杏子と栞代が深々と頭を下げると、その後ろで、楓と一華が、緊張で固まったように、慌ててそれに倣った。
「先生、はじめまして! 光田高校一年、皇楓です!」
「同じく、九一華です。本日は、よろしくお願いいたします!」
中田先生は、二人に向かって、穏やかに、深い眼差しで頷いた。その滲み出る風格は、隠しようもなく、敏感な楓だけでなく、理知的であるはずの一華をも、完全に圧倒していた。
(……すごい。この人が、杏子部長を育てた……)
一華の胸に、畏敬の念と共に、一抹の不安がよぎる。旧来の、高名な弓道家の中には、科学的なアプローチを「無駄」、あるいは「邪道」と言い切る者が少なくない。この、生きる伝説のような先生は、果たして、どちらなのだろうか。自分のやろうとしていることは、この神聖な場所では、害悪だと断じられてしまうのではないか。
(……いや)
一華は、ぐっと唇を結んだ。
(わたしが、この部で、わたしの力を最大限に発揮して貢献できる道は、これしかないのだから)
彼女は気を取り直すと、中田先生に、機材設置の許可を丁寧に求めた。
軽く準備運動を済ませると、杏子と楓は的前に、そして、新しい射型の定着を目指す栞代は、黙々と巻藁に向かう。中田先生は、奥の母屋の縁側に腰を下ろし、静かにお茶をすすっている。特別なことがない限り、彼女が口を出すことはない。けれど、その視線は、確かに、道場にいる四人の一挙手一投足を、温かく、そして鋭く見守っていた。
(弓を握るまでに二年近く。握ってからも、しばらくはずっと、先生が付きっきりで見てくれていたな……)
杏子は、懐かしく思い出す。そのおかげか、今ではもう、先生から声をかけられることもほとんどなくなった。それが、少しだけ寂しくもあり、そして、何よりも誇らしかった。
それは先生自身の自らの指導への自信の表れ、矜持でもあった。
しかし、今日の楓は、明らかにいつもと違った。憧れの杏子と、その師である中田先生。二人に挟まれた、この特別なシチュエーションに、彼女はすっかり舞い上がってしまっている。身体はガチガチに強張り、矢は、あらぬ方向へと飛んでいった。
少し休憩を挟み、杏子は、そんな後輩に優しく声をかける。
「……ところで、楓。わたしの射を見て、何か気になるところはない?」
「い、いえいえいえ! 滅相もございません! 杏子部長の射は、いつも、寸分の狂いもなく、本当に美しいです!」
「ふふっ。楓の射も、すごく綺麗だよ。自信持って」
その、圧を全く感じさせない、穏やかなやり取り。そこへ、タブレットを片手にした一華が、すっと割って入った。
「楓。先ほどの映像データです」
画面には、スローモーションで再生される、楓自身の射が映し出されていた。
「杏子部長と二人きりという、極度の緊張状態のせいか、引き手に、普段の1.5倍の不要な力が入っています。その結果、離れの瞬間に、矢筋がぶれています」
「ふふっ。それ、わたしも、昔ずっと先生に言われてたなあ。数値は無かったけど」
「えっ! 杏子部長と同じ……! なんて、光栄なことでしょう!」
楓は、指摘されたことへの反省よりも、憧れの人との共通点を見つけた喜びで、ぱっと顔を輝かせた。
その様子を、中田先生は、縁側で柔らかく見守っていた。
(杏子は、本当に、あの子の祖母によく似てる)
圧をかけない。相手に気づかせる。時代、ということもあるのかもしれない。昔は、今の三倍は矢数をかけて、身体に覚え込ませたものだ。今、そんな無茶な練習をしているのは、全国でも数えるほどだろう。杏子も、時間がある限り、ひたすらに弓を引く。のんびりした性格に見えて、その実、一つのことに膨大な時間をかけることができる。
その気質も、早気とは全く無縁の、あの美しい射を生み出した要素のひとつだろう。そして、その穏やかな雰囲気が、今や光田高校弓道部全体を包み込んでいる。
(……それにしても、あの一華という子は、面白い)
中田先生は、道場の隅で、様々な計器を操る、新しいタイプの少女に、興味深そうに目を細めた。
(あの科学が、杏子の弓道と交わった時、一体、どんな影響が出るのか。いや、光田高校弓道部全員、どう変わっていくのか……これは、見てみたいものね)
時間はあっという間に過ぎていき、少し早い昼休みを取ることになった。中田先生も誘うが、「若い者同士で、ゆっくり食べなさい」と、母屋に戻っていく。杏子は、その背中に、祖母が今朝作ってくれたお弁当の中から、先生の好物である煮物だけを、そっと手渡した。
矢を収めた道場に、しんとした静けさが戻る。外では、冬の風が畑を渡り、乾いた竹の葉を揺らす音が、かすかに聞こえていた。
四人は、板張りの縁側に、気持ちの良い距離感で腰を下ろし、杏子が持ってきた、大きなお弁当の包みをほどいた。ふわりと立ち上る湯気と共に、出汁の、甘じょっぱい優しい匂いが、辺りを包み込む。
「杏子部長のおばあ様のお弁当って……ほんとうに、宝石箱みたいです……!」
楓が、目をきらきらと輝かせ、箸を持つ手をわなわなと震わせている。
丁寧に巻かれた卵焼きの鮮やかな黄色、ちょこんと乗せられた梅干しの赤、艶のある鶏の照り焼き。どれも家庭的なおかずなのに、その一つ一つが、愛情を込めて作られたことが分かる、丁寧で、美しい仕上がりだった。
「そんな、大げさだよ」
杏子は、頬を掻きながら笑った。だが、彼女自身も、その鶏の照り焼きを一口かじった瞬間、幸せそうに目を細めて、その味をじっくりと噛みしめる。その姿を見て、楓は、胸を押さえてその場に崩れ落ちそうになった。
「やっぱり……! 部長のそのお顔は、世界で一番、かわいいです……!」
「はいはい、落ち着けって」
栞代が、それぞれにお茶を注ぎながら、楓の背中を軽く叩いた。
「気持ちは、まあ、分からんでもないけどな。ほら、杏子の前で、あまり取り乱すなよ」
「だって! 杏子部長が! あの、卵焼きを、召し上がって、微笑んだんです! わたし、来世は、あの卵焼きになりたいですっ!」
「いや、それ、色々とおかしいやろ。それに、卵焼きに嫉妬するやつ、初めて見たわ」
栞代が、心底呆れたように笑う。
その横で、一華が、お弁当の中身を、じっと、分析するように観察していた。
「……栄養バランスが、非常に合理的です。糖質、たんぱく質、ビタミン、全ての配分が、アスリートの補食として、理想的な比率で整えられていますね」
そこまで言って、彼女は、一つの結論を導き出した。
「……ただし、この唐揚げは、やや油分過多です。午後の的中率に、僅かながら影響が出る可能性は、否定できません」
「ちょ、ちょっと、一華!」
杏子が、思わず箸を止める。
「その唐揚げは、わたしのリクエストなの! 大好きだから、おばあちゃんに入れてもらったんだから! それに、これは、ノンフライヤーで調理されているので、通常より脂質は40%カットされているはずだよっ!」
ぷくっと頬を膨らませて、杏子が必死に抗議する。
一華は、悪びれもせず、淡々と答えた。
「事実を述べたまでです。もちろん、美味しいであろうことは、否定しません」
唐揚げを黙々と食べながら一華は続けた。
「……真映とは、また違うパターンの漫才師が、ここに誕生したな」
栞代が、笑いながら、絶妙なフォローを入れた。
「むしろ、わたしは、この唐揚げがあるから、午後も頑張れるって思うけどなあ」
杏子は、まだ少しむくれたまま、そう言い返す。
「……ほら、また、かわいい」
楓は、すかさず小声でそう呟き、またもや胸を押さえるのだった。
お弁当の温もりと、四人の笑い声が重なって、縁側を吹き抜ける冬の冷たい風も、どこか遠くに感じられた。
矢道に漂っていた、あの張り詰めた緊張はどこへやら。今はただ、四人のための、穏やかで、そして、かけがえのない時間が、ゆっくりと流れていた。




