第307話 ラーメン屋の邂逅と、聖域の鑑賞会
三連休の初日。
あかね、まゆ、真映、そしてつばめの四人が目指す、有名ラーメン店の豚骨スープの濃厚な香りが、角を曲がったあたりから、すでにふわりと鼻腔をくすぐっていた。その香りに誘われるように店の前に着いた時、真映が、どこかで見たような一台の車を指差した。
「あれ? あの車って……宇宙人2号の車じゃないですか?」
なぜか、杏子本人ではなく、その祖父の方が「2号」という扱いになっている。三人が、真映の指さす方向に目を向けると、確かに、見慣れた杏子の祖父の車が駐車場に停まっていた。
すると、まるでタイミングを合わせたかのように、その車の後部座席のドアが開き、二人の少女が降りてきた。
「あっ、お姉ちゃんっ!」
つばめが、驚きと喜びの入り混じった声を上げ、その一人に駆け寄っていく。
「お、つばめ。驚いたか?」
してやったり、とでも言うように、悪戯っぽく笑う姉、小鳥遊つぐみが、妹の頭をくしゃりと撫でた。
その姿に、あかねとまゆも、ぱっと顔を輝かせる。
「つぐみじゃないか! あんた、てっきり、もう杏子のところに行ってるもんだとばかり思ってたわ!」
つぐみは、にやりと笑みを深めた。
「まあな。昼ごはんを食べてから、杏子たちと合流するっていう流れになってな。それなら、ちょっとこっちを驚かせてやろうかと思ってさ」
「ふふっ。きっと、杏子ちゃんのおばあ様が、お昼ご飯も作るって言ってくださったのを、遠慮したんでしょう?」
まゆの的確な推測に、つぐみは「さすが、まゆ。その通りだよ」と肩をすくめた。「まあ、杏子のおじいちゃんには、道具の運搬とか、しっかりお願いしちゃったけどな」
あかねとまゆにとって、つぐみは、引っ越しするまで苦楽を共にした大切な仲間だ。つばめにとっては、世界で一番の姉。しかし、真映にとっては、まだ大会などで顔を合わせた程度の、未知の存在。
ここで、真映のパフォーマンス魂に、火がついた。
「お控えなすって」
「いや、それ、もうええから」
あかねが、その芝居がかった口上を、即座に、しかし雑に遮る。
「むむむ、残念でござる……!」
「あなたが、真映さんだよね。つばめから、話は色々聞いてるよ」
つぐみのその言葉に、真映は再び、きらりと目を輝かせた。
「おっ! つばめどのから、我が武勇伝を! 杏子一家、あかね組の若輩者、人呼んで、“疾風の真映”と発します!」
どうしても、それは言いたいらしい。
「誰も呼んでへんわ」
あかねのツッコミにも、つぐみは動じず、冷静に、隣に立つ後輩を紹介した。
「こっちは、葵。うちの後輩。どうしても、ついて来るって聞かなくてな」
紹介された少女──篠森葵は、顔を真っ赤にさせながらも、意を決したように、一歩前に出た。そして、真映の言葉を、律儀に受けてみせる。
「……つぐみ一家の、末席を汚させていただいております、篠森葵と申します。お見知りおきを」
「「おおーっ!」」
その、あまりにも健気な自己紹介に、自称「杏子一家」の面々から、やんややんやの喝采が上がる。
だが、その時、つばめが、ぽつりと、呟いた。
「……あの。わたしって、どっちの所属に、なるんだろう……?」
その、彼女のアイデンティティの根幹に関わる問い。それに、真映が、またしても芝居がかった、しかし、触れてはならない言葉で応えようとした。
「親の因果が子に報い、杏子一家のつばめが煩悶(はんもん)──ぐえっ」
「こ、こら、真映! それは、全くもって、シャレになってへんやつやぞ!」
あかねの掌が、見事な速度で、真映の口を塞いだ。つぐみとつばめの両親が離婚し、今は離れて暮らしているという、デリケートな事情。
しかし、当のつぐみは、そんな仲間たちの気遣いを吹き飛ばすかのように、腹の底から、からからと大笑いした。
「はははっ! こりゃ、大変だわ! 杏子も、毎日、苦労してるんだろうなあ!」
ラーメン店の中でも、二つのグループの話は尽きなかった。だが、時間は有限だ。
「つぐみ、この後、一緒にカフェも行かない?」
あかねの誘いに、つぐみは、首を横に振った。
「いや、遠慮しとく。わたしは、これから杏子のところで、一本でも多く弓を引く。それが、今日の目的だからな」
その瞳には、親友との再会を前にした、静かで熱い光が宿っていた。
「おじいちゃん、お待たせしました」
「おう。それじゃあ、杏子たちのところに向かうとするか」
つぐみと葵は、杏子の祖父の車に乗り込み、一路、中田先生の道場へ。
残された四人は、次の目的地であるカフェへと向かう。あかねは、その道すがら、賑やかなラーメン屋での集合写真を、グループLINEに投稿した。『仕組まれた邂逅!』という、一言を添えて。杏子組からも、すぐに『楽しそうだね!』という返信や、スタンプが返ってくる。
だが、ソフィアと紬からの既読は、一向につかなかった。
その頃、ソフィアの家では。
四人が、スクリーンから放たれる圧倒的な光と音に、魂ごと没入していた。
ソフィアからの熱心なリクエストで、エリックとリーサも、孫娘とその友人が愛してやまない「アニメ」の世界に、足を踏み入れていたのだ。ソフィアと紬が、数ある名作の中から、「これなら、きっと二人にも楽しめるはず」と、知恵を出し合って選定した、一本の劇場版アニメ。
その傍らには、リーサが用意した、ライ麦パンのオープンサンドと、透明なガラス容器に、色とりどりのお菓子が並べられている。フィンランドでは、グミやチョコレート、キャンディの類を、まとめて「キャンディ」と呼ぶのだという。約五十種類はあるという、有名なリコリス(甘草菓子)や、あの独特な風味のサルミアッキ(塩化アンモニウム味の菓子)も、そこにはあった。
絶え間なく、口の中も賑やかだ。スクリーンの中の物語がクライマックスに差し掛かった時、ソフィアは、感極まったように、日本語で叫んだ。
「ああ……! この、主人公の覚悟! わたしの心にも、刺さります……!」
その横で、エリックが、真剣な顔で呟く。
「ふむ。この、敵のボスの言うことにも、一理あるな……。単純な悪とは言えんぞ」
「あなた、そっちに感情移入してるの?」
リーサが、呆れたように笑う。
紬は、ただ、黙って、その光景を、そして物語を、静かに、しかし、誰よりも深く、味わっていた。キャンディと共に。
グループLINEの通知音など、この、四人だけの聖域には、到底届きはしなかった。




