第304話 約束の道場と、科学者の朝
三連休の初日。冬の朝の光は、まだ眠っている街に、白く、そして静かに降り注いでいた。学校が休みの日は、祖父との朝の散歩の距離が、いつもよりほんの少しだけ延びる。澄み切った冷たい空気を吸い込みながら、杏子は、今日の賑やかな予定を、改めて祖父に伝えていた。
千曳ヶ丘から、つぐみが後輩を一人連れてくること。今夜は、杏子の家に泊まっていくこと。そして、栞代と楓、一華もやってきて、一緒に中田先生の道場へ向かうこと。
その計画を聞いた祖父は、ただでさえ上機嫌だった顔を、さらにくしゃくしゃにして頷いていた。
「ほう、あの小鳥遊つぐみさんが来るのか。去年のブロック大会でのあの射は、鬼気迫るものがあったからのう。全国大会までには、随分と射を整えてきたもんじゃ」
「ふふっ。おじいちゃん、いつの間にか、すっかり詳しくなったね」
「だがな、ぱみゅ子。一昨年のブロック大会で、お前さんを破った時の、あの凄みには、まだ及ばんように見えたわい」
「うん。あの時のつぐみは、本当にすごかったよ」
杏子の脳裏に、あの日の、親友でありライバルであった少女の、火花を散らすような射が蘇る。
「まあ、あの頃のぱみゅ子は、まだ心に迷いがあった。だが、それを差し引いても、彼女の執念は凄まじかったわ」
「うん。あの時、引退した瑠月さんと、つぐみと三人で組んで、練習試合だったけど、あの鳳城高校にも勝ったんだよね」
「今から思うとな、つぐみさんは、引っ越す前のあの時期、気迫が違ったんじゃろうな。ぱみゅ子と組んで弓を引くのが、もう最後になるかもしれんという、その執念が、彼女の矢に宿っておったんじゃ」
「やっぱり、弓道って、最後は気持ちなのかな……?」
「もちろん、技術という盤石の支えがあってこそ、じゃがな」
祖父の言葉には、ただの孫びいきではない、確かな洞察があった。
「おじいちゃん、弓道評論家になれそうだね」
「おお、そういえば、弓道評論家というのは、とんと聞かんなあ」
「だって、弓道はプロスポーツでもないし、テレビ中継だって、ほとんどないもの。だから、必要なかったんだよ」
杏子はそう言って、からりと笑った。
家に帰り、温かい朝食を囲む。その穏やかな時間が終わる頃、玄関のチャイムが鳴った。栞代と楓、そして一華がやってきたのだ。
クラブ活動で、あれほど毎日顔を合わせているというのに。部活を離れ、私服姿で、杏子の家の玄関に立ったというだけで、楓は妙に緊張していた。
「ぶ、部長……! お、おはよう、ございますっ!」
「ふふっ。楓、顔が固いよ」
「おいおい、さっきまで普通に喋ってたじゃないか」
栞代が、面白そうに笑う。
「いつも通り、予想通りの反応です。改めてデータを取る必要はありませんね」
一華が、冷静に、そして淡々と呟いた。
杏子の祖父が運転する車に乗り込み、一行は、中田先生の個人道場へと向かう。杏子が、中学時代、来る日も来る日も通い続けた、第二の故郷のような場所。学校の道場ほど広くはないが、手入れの行き届いた、凛とした空気が流れる空間だ。
車の窓の外を流れる、見慣れた景色を眺めながら、杏子は、ぼんやりと昔のことを思い出していた。
(中学の時、学校が終わると、すぐに自転車を飛ばして、日が暮れるまで、ずっとここで練習してたなあ……)
中田先生は、普段は仏様のように優しいが、弓のこととなると、鬼のように厳しかった。特に、当てよう、という気持ちが少しでも矢先に宿ると、どこからそれを見抜くのか、いつも厳しく叱られた。
(どうして、分かるんだろうって、あの時は不思議で仕方がなかったなあ……)
学校の道場に通えない時には、ここへ来ることが、いつしか当たり前のようになっている。けれど、よく考えてみれば、この場所は、杏子にとって、ただの練習場所ではなかった。
決して新しい施設ではない。必要最低限の設備しかない。それでも、地元の弓道会の練習にも使われていたこの道場では、様々な年代の、上手な人たちの射を、数えきれないほど見せてもらった。けれど、中田先生は、絶対に自分以外の誰にも、杏子の指導をさせなかった。
(今から思うと、違うことをたくさん言われても、あの頃のわたしは、きっと混乱するだけだったからなんだろうな……)
杏子は、小さく微笑んだ。
(でも、今はもう、大丈夫)
今はもう、どんなアドバイスを聞いても、それが自分の身体の芯を揺るがすことはない。中田先生と、おばあちゃんと、そして拓哉コーチ。その三人の教えだけが、自分の弓道の全てを形作っている。その確信が、彼女を強くしていた。
道場へ着くと、祖父は、まるで自分の役目だとでも言うように、てきぱきと用具の運搬を手伝ってくれる。そして、いつものように、練習風景をしばらく満足げに眺めると、「じゃあ、また、迎えに来るからのう」と、帰る準備を始めた。
しかし、その時、道場の隅で何やら機械を設置している一華に、悪戯っぽく声をかけた。
「一華さん。そんなことばかりしとらんで、退屈じゃないのかい? もし退屈なら、今から家に戻って、わしの淹れる、あの黄金色の紅茶を、特別にご馳走するが、どうじゃ?」
確かに、この、杏子という分析不可能な血の源流とも言える祖父の生態にも、一華は、間違いなく強い興味を抱いていた。
しかし。
「いえ、おじい様。そのお申し出は、大変ありがたいのですが」
一華は、きっぱりと首を横に振った。
「ワタクシには、まだまだ、ここで遂行すべき研究がありますので」
そう言う彼女の手には、簡易ながらも、気温、気圧、湿度を精密に計測するデジタル計器が握られていた。
「……しまった。風向きと風力を測るセンサーを、家に忘れてきてしまいました」
一華は、一瞬だけ、本気で悔しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直した。
「……まあ、仕方ありません。今日は、指でも舐めますか」
その、あまりにも原始的な代替案と、彼女の真剣極まりない表情のギャップ。さらに、彼女が取り出した、太陽の位置、射位からの角度、地面の傾斜などが、細かくびっしりと書き込まれたチェックシートを見て、祖父は、もう、呆れ返るしかなかった。
(……そこまで、必要か、それ?)
その言葉を、彼は、ぐっと飲み込んだ。
(そのうち、射手の周りの静電気の量まで、測り始めそうじゃな……。そもそも、そんなものが、量れるのかどうかは、知らんが)
祖父は、静かに、そしてゆっくりと、未来の科学者の、聖域(サンクチュアリ)を後にしたのだった。




