第302話 『科学の風と、三日間の凪』
三学期が始まり、数日が過ぎた、ある日の練習後。
冬の夕暮れが道場に差し込み、部員たちが片付けを始める中、一華だけが、どこか落ち着かない様子で、拓哉コーチの周りを衛星のように周回していた。その瞳には、隠しきれない期待の光が宿っている。それに気づいたコーチは、やれやれといった風に小さく笑うと、一華と、そして全部員に向かって、静かに声をかけた。
「一華から、以前より要望が出ていた件だが」
その一言に、部員たちの手が止まる。コーチの声には、珍しく、少しだけ弾むような響きがあった。
「いくつかの分析機器が、導入できることになった」
「……! ほんと、ですか!?」
一華の声が、上ずる。コーチは、そんな彼女に頷き返すと、話を続けた。
「それに、メンタルコーチの深澤も、かなり本格的な研究を進めているようでな。彼の専門分野であるメンタルトレーニングと並行して、うちのデータ分析にも、全面的に協力してくれるそうだ」
「……ありがとうございますっ!」
一華は、深く、深く頭を下げた。彼女がずっと夢見てきた、弓道という伝統的な武道の世界に、科学という新しい風が吹き込む。その瞬間が、今、訪れようとしていた。
コーチが、導入される機材のリストを読み上げていく。
「まず、心拍数、呼吸数、体温をリアルタイムで計測するための、最新のスマートシャツ」
一華の脳裏に、鮮やかな未来図が広がった。これまで「平常心」という、あまりにも曖昧な言葉でしか語られてこなかった射手の内面が、心拍数や呼吸の深度という「客観的な数値」として、眼前に可視化される。緊張、集中、そして、あの「ゾーン」と呼ばれる無我の境地。その全てが、美しいグラフとなって現れるのだ。
「次に、道場内外の、気温、湿度、気圧、風力、風向きを常時記録する、各種環境センサー」
その日の風の息遣い、湿度の粘り、気圧の重さ。これまで射手の「長年の勘」に頼るしかなかった全ての環境要因が、冷徹なデータとして蓄積され、的中との緻密な相関関係を導き出すことができるかもしれない。
「そして、高速カメラが一台。さらに、射手の真上から、射全体の流れを俯瞰で撮影するための、天井への施設工事も行う」
矢が弦を離れる、ほんのコンマ数秒の世界。矢羽根が空気を切り裂く微細な振動。的を射抜く瞬間の衝撃。その、人間の目では決して捉えることのできない神速の世界が、スローモーションとなって、眼前に現れるのだ。
最新機器の数々に、部員たちから「おおーっ」と感嘆の声が上がる。しかし、その一方で、誰もが同じ疑問を抱いていた。公立高校の、決して潤沢とは言えない予算で、どうやってこれだけの設備を?
その疑問を察したかのように、コーチは、少しだけ照れくさそうに、その舞台裏を明かし始めた。
それは、一華一人の情熱だけでは、決して成し得なかった奇跡。この光田高校弓道部が、いかに多くの人々の愛情に支えられているか、その証でもあった。
あるものは、メンタルコーチの深澤が、自身の研究室で使っていたお下がりを、快く譲ってくれたもの。拓哉コーチの無二の親友として、そして、この部の生徒たちの成長を願う指導者として。
コーチの大学時代の同期としては、合宿でいつも臨時コーチとして来てくれる面々、稲垣、神矢、草林、大和らの助力もあった。
あるものは、ソフィアの祖父、エリックが、自身の研究室から送ってくれたもの。自らの研究対象でもある日本の文化、そして弓道部への、心からの感謝と敬意の印として。彼の、文化や学問への尽きない探求心が、一華の純粋な情熱と、美しく共鳴したのだ。
そして、最も高性能な高速カメラは──。
「うちのぱみゅ子を、世界で一番美しく撮るためには、世界で一番ええカメラが必要じゃ!」
という、杏子の祖父の、鶴の一声によって寄付されたものだった。彼は、自身の古いコネを使いまくり、ほとんど新品同様の中古品を、破格の値段で手に入れてきたのだという。その動機は、孫への溺愛以外の何物でもなかったが、その裏側には、杏子の夢を、誰よりも本気で応援している、不器用な愛情が満ち溢れていた。
「……それに、今回の件とは別に、去年の部長だった国広花音が、卒業生によるOBOG会を正式に結成する、という流れも作ってくれている。今後、部がさらに活動しやすくなるはずだ」
深澤コーチ、エリックさん、杏子の祖父、そして、卒業していった先輩たち。たくさんの人々の、温かい想いが、この場所に集まっている。その事実に、部員たちの胸は、じんわりと熱くなった。
最新機材の導入という、輝かしい未来。その喜びに、道場が沸き立つ、まさにその時だった。
「ただし」
コーチが、少しだけ真面目な声で、その熱狂に水を差した。
「天井のカメラ設置工事のため、今週末からの三連休は、完全に道場への出入りを禁止とする」
「……………………えっ」
杏子の口から、小さな悲鳴にも似た、か細い声が漏れた。
弓を引けない、三日間。それは、彼女にとって、三日間、呼吸を止めていなさいと言われるのに等しい、絶望的な宣告だった。
栞代が慌てて駆け寄り、杏子の背中をさする。
「息しろ、息。中田先生のところがあるだろ」
と笑う。
その杏子の横で、一人の少女が、隠しきれない喜びを全身で表現していた。
「やったー!」
真映だった。
「正月の封切り映画、まだやってるんですよ~」
紬とソフィアは目線を交わし、同じことを思った。
「これで心置きなく、年末年始に溜まりに溜まった録画アニメ見られる」
そのあまりにも対照的な反応に、道場は再び、賑やかな喧騒に包まれた。
「まあ、杏子。いつもと違うことをするのも練習になるはずだ」
栞代が、がっくりと肩を落とす親友をなだめる。
「真映、お前はしゃぎすぎや」
あかねが、いつものように鋭いツッコミを入れる。
こうして、光田高校弓道部の、新たな進化へと繋がる、ほんの少しだけ弓から離れる、特別な三連休が、始まろうとしていた。




