第301話 ご飯とたまご焼きとわたし
始業式を終えた昼休み。三学期が始まったばかりの校舎には、冬休み中の静けさが嘘のように、生徒たちの賑やかな声が満ちていた。しかしその活気も、どこか浮足立っている。目前に迫る受験という大きな節目を前に、三年生は最後の追い込みに入り、校内全体が、その緊張と期待を共有しているかのようだった。
杏子の教室でも、窓際の席で弁当を広げた彼女と栞代が、そんな先輩たちのことを話していた。
「先輩たち、もう今が一番大変な時期だろうなあ」
栞代が、ほうれん草のおひたしを口に運びながら、窓の外へと視線を向ける。
「あっ……。わたし、昨日、瑠月さんに電話しちゃった」
杏子が、申し訳なさそうに声を潜めた。
「まあ、息抜きに、ちょっとだけ話すくらいならいいだろ」
「えっと……一時間ぐらい、話しちゃった……」
「……まあ、瑠月さんのことだから、毎日じゃなければ大丈夫だろ」
栞代は、少しだけ呆れたように、しかし優しくフォローする。
「う、うん。でも、瑠月さんの方からも、いろいろ聞かれたから……」
「ああ、そうか。きっと、瑠月さんも杏子のそのぽんやりした声を聞いて、ほんわかしたかったんだな」
「うん?」
きょとんと首をかしげる杏子に、栞代は苦笑した。
「それにしても、もう二週間もないんだからな、本番まで」
「え? もう、そんなになの?」
「ははっ、杏子らしいな。……ところで、杏子」
栞代は、ふと真面目な声色になり、親友の顔をまっすぐに見つめた。
「進路のことだけど、やっぱり、気は変わらないのか?」
「うん」
「短大とか、専門学校とか、やっぱり行く気はないのか? もし、あのジジ……おじいさまが、側にいてほしいとか、口出ししてるんなら、オレがおばあちゃんと組んで、杏子の希望通りになるように、全力で援護するぞ」
その、あまりにも真剣な眼差しに、杏子はふふっと笑みをこぼした。
「ありがとう、栞代。でも、ううん、違うのよ。わたし、ほんとうに、好きなようにさせてもらってるんだ。だから、わたし自身のわがままで、おじいちゃんとおばあちゃんの側にいたいの。……ただ」
「ただ?」
「おばあちゃんは、高校を卒業したら、ちゃんと資格を取るために専門学校に行ったんだって。将来のことを、ちゃんと自分で考えてて、偉いなあって」
その呟きに滲む、憧れの祖母に対する、ほんの少しの羨望。栞代は、そんな親友の心の機微を感じ取りながら、穏やかに言った。
「いや、杏子も、まだまだこれからだよ。それに、おばあちゃんはもちろん、あのジジ……おじいさまも、杏子が側にいてほしいだろうけど、それ以上に、杏子が本当に望む道を行ってくれる方を、望むと思うぞ」
「うん、そうだね。……大会が終わったら、また、ちゃんと考える」
「ま、それでいいんじゃないか。杏子に、二つのことを同時に考えさせるのは、無理だからなあ」
栞代が、悪戯っぽくそう茶化すと、杏子はむっとしたように頬を膨らませた。
「で、できるもん! わたし、ご飯を炊きながら、たまご焼きだって焼けるんだから!」
「ははっ。でも、それ、炊飯器のスイッチを入れたら、あとは炊飯器が全部やってくれるやつやん」
「で、でもっ! おじいちゃんは、わたしの炊くご飯は、おばあちゃんが炊いたのと同じくらい美味しいって、褒めてくれるんだよ!」
「はいはい」
「だって、栞代! おじいちゃんは、お米の味に、すっごく、すっごくうるさいんだから! わたし、ちっちゃい時からおばあちゃんに教えてもらって、初めておじいちゃんが、一口食べて『……うん、美味い』って言ってくれた時、ほんとうに、嬉しかったんだから〜!」
熱弁する杏子の姿に、栞代は笑いを堪えきれない。しかし、その話の中に、ふと、ある一点が引っかかった。
「……ん? いや、ちょっと待てよ、杏子」
「なに?」
「今の話だと、その、ジジ……おじいさまが『美味い』って言うまで、杏子、何度も何度も、トライしたってことだよな?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、その、『美味い』って言われる前の、まあ、正直あんまり美味しくなかったであろうご飯は、どうなったんだ?」
栞代の素朴な疑問に、杏子は、きょとんとした顔で答えた。
「え? あのね、そういう時は、おばあちゃんが、おじいちゃんの耳元で『今日のご飯は、杏子が一生懸命洗って炊いたんですよ』って、そっと囁いてくれるの。そしたら、おじいちゃん、にこにこしながら、『おお、そうか! 今日の米は、一段と甘いのう!』って、嬉しそうに全部食べてくれたよ」
その答えに、栞代は、少し意外そうな、詰まらなさそうな顔をした。。
「……お、そうなのか。オレはてっきり、あのジジ……おじいさまのことだから、『こんなメシが食えるか!』とか言って、ちゃぶ台をひっくり返したのかと思ったよ。はははっ」
栞代の冗談に、杏子は、心底不思議そうな顔をして、首をかしげた。
「え? なんで?
あの時は、ちゃぶ台じゃなくて、ダイニングテーブルで食べてたよ、栞代」
その、あまりにも完璧な天然の切り返しに、栞代は、もう笑うしかなかった。
そして、同時に思うのだ。
そうだ。こいつは、こういうやつだった。昔からなんだなあ。
一つの目標を決めたら、それが「おじいちゃんに美味しいご飯を食べさせる」ことであれ、「おばあちゃんに金メダルを贈る」ことであれ、その道筋から、決して目を逸らさない。何度失敗しても、ただひたすらに、純粋な想いを積み重ねていく。
その、普段のぽんやりした姿からは想像もつかない、恐ろしいほどの頑固さと、ひたむきさ。
それこそが、杏子という人間の、本当の強さの源泉なのだと。
栞代は、腹の底から笑いながら、親友のその揺るぎない背中を、改めて、頼もしく見つめていた。




