第3話 栞代の決意の巻 後編
杏子は、道場内のざわつきの中で、静かに心を整えながら神棚に一礼をした。その所作は凛としたもので、周囲の喧騒とは、まるで別世界にいるかのような雰囲気を纏っていた。
矢取りを終え、冷静な面持ちでゆっくりと歩を進め、弓と矢を貸してくれた感謝を伝えるために、冴子のもとへと足を運んだ。
「冴子さん、
わたしに合った弓と矢をありがとうございます。
冴子さんのおかげです。」
緊張で張り詰めていた気持ちも、冴子に感謝の気持ちを伝えることでほぐれていくように感じた。杏子の言葉には、真心からの感謝が込められていた。冴子の選んでくれた弓と矢が自分の心と一体となっていたこと、彼女の慧眼が杏子を支えてくれたことを、どうしても伝えたかったのだ。感謝を伝えたかった。
いつものように落ち着いて弓を射る、それを支えてくれたのは、自分に合う弓と矢を選んでくれたのは、冴子だったから。
冴子は穏やかな笑みを浮かべ、杏子の言葉を受け止めた。
。
「美しい射型だったよ。」
それだけの短いやりとりであったが、冴子の一言には確かな信頼と理解が込められていた。言葉数は少なくても、その一言で十分だった。杏子は、冴子との間に確かな信頼感が生まれたことを感じ、その胸が少し熱くなった。
その瞬間、遠くから駆け寄る足音が聞こえ、杏子の元に栞代が勢いよくやってきた。顔は興奮で赤く染まり、息が少し上がっていたが、目は輝いていた。
「杏子、おまえすごいな。」
栞代は息を整え、杏子をじっと見つめた。その視線には、尊敬と驚きが入り混じっていた。杏子はその視線に少し照れながら、恥ずかしそうに笑った。
栞代は声を掛けた。
「もう、目標に向かってずっと歩いてたんだな。」
栞代は、弓道のことはまるで分からなかったが、杏子がこれまでどれだけ努力してきたのかを改めて実感していた。そして、その思いを口にすることで、昔自分がしてきた努力、その思いを共有しているかのような感覚を抱いていた。
「あの雰囲気の中できっちりと結果を出すなんて
これまで相当努力してきてるんだな。」
「それに気持ちも強いよ。
相当緊張しただろ」
栞代の真っ直ぐな言葉を聞きながら、杏子はその瞬間、栞代が自分の思いをきちんと受け取ってくれたんだと嬉しくなった。その優しさに包まれるような安堵感が杏子の心を満たしていく。
「全然強くないのよ。
おばあちゃんに言われてるの。
『正しい射型で射ることだけ。あたるかどうかはただ結果なだけ』
って」
杏子の声には、優しい柔らかさがあった。その声には、幼い頃から胸に刻んできたおばあちゃんの言葉が込められていた。
弓道を教わり始めた、まだまだ小さい時に、おばあちゃんが最初に教えてくれて、そして今も繰り返し教えてくれるこの言葉。この言葉を思い返すたびに、杏子の心は落ち着きを取り戻していったのだ。
「何も考えない無心が一番らしいけど、
そこまではなかなかね。
今日はたまたま」
「きっと栞代が応援してくれたからだね。
ありがとう」
杏子は栞代の目を見て、心からの感謝を伝えた。彼女はただ謙遜しているのではなく、矢が的に中ったのは栞代の応援があったからだという思いがあった。彼女の真心が伝わり、矢が届いた──そう思っていた。
悪意とは違うが、どうなるんだという興味の視線がほとんどの中で、栞代だけは、本気で祈ってくれてた。そう信じてた。
栞代は、そんな杏子の言葉に思わず笑みを浮かべた。自分のおかげだという杏子の気持ちは嬉しかったが、これは紛れもなく、杏子の実力によるものだった。
「いやいやいやいや、
杏子の覚悟が伝わってきたよ。
そりゃ本気は疑ってなかったけど、
もう本気も本気なんだな。」
栞代の言葉に、杏子は心からの嬉しさを感じた。自分のこれまでの努力や思いが、確かに栞代に伝わっていたんだ。その嬉しさは、矢が的に中る以上のものだった。胸の中にある温かい感情が膨らんで、杏子の表情に自然と笑顔が浮かんだ。
「煩わしい他のことは一切考えずに
落ち着いて静かな気持ちになって弓を引く。
ほんとに気持ちよくて大好きなの」
杏子は、自分が弓を引くときの感覚を思い出しながら、ゆっくりと栞代に語りかけた。その言葉には、おばあちゃんと弓道への深い愛情と感謝が込められていた。
「栞代も、きっと好きになるよ。」
杏子の真剣な思いとその言葉、そして本当に楽しそうな笑顔に、栞代は迷いなく頷いた。昨日までの不安や迷いはもうなかった。杏子の覚悟が、栞代にもしっかりと伝わっていた。そして栞代は、真剣に、目標に向かって努力する充実感を思い出し、期待に満ちた表情で力強く宣言した。
「オレもどこまでできるかわからないけど、全力でやってみるよ。」
その目にはもう迷いは微塵もなかった。そして、栞代は続けた。
「教えてくれるだろ。」
杏子は微笑みながら、昨日栞代が自分に言ってくれた、自分の宝物になった言葉を思い出し、その言葉と思いを返した。
「教えるなんてとてもできないけど、
もちろん、わたしにできることは全力で協力するわ。」
杏子は、そう言いながら、栞代から差し出された手をそっと包んだ。その瞬間、二人の間の絆がさらに強くなったように二人は感じた。夢に向かって共に歩んでくれる仲間がいる、それが何よりも嬉しくて、杏子の胸は期待と喜びでいっぱいになった。