第295話 国境を超えた約束
始業式の朝。杏子の家の玄関先は、慌ただしくも、どこか名残惜しい空気に包まれていた。時間通りに迎えに来たエリックの車に乗り、ソフィアとアンナを連れてエリック宅にもどる。
制服に着替えたソフィアは、これから学校へと向かうのだ。彼女は、玄関の扉の前で振り返ると、妹の瞳をまっすぐに見て、短く、しかし力のこもった声で言った。
「がんばって、アンナ」
アンナは、何も言わずに、こくりと強く頷いた。
父ヨハンと母ミーナが、静かに娘の帰りを待っていた。
「おかえり、アンナ。杏子ちゃんのお家、楽しかった?」
ミーナが、いつものように優しい笑顔で問いかける。しかし、アンナはそれに答えない。彼女は、ぎゅっと固く両手を握りしめると、意を決したように、両親の前に進み出た。
その小さな身体から発せられる、ただならぬ気配。アンナは、心の底からの願いを、震える声で、しかしはっきりと母国語で紡ぎ出した。
“Isi, äiti… Haluan jäädä Japaniin. Kyokon kanssa.”
(パパ、ママ……わたし、日本に残りたい。杏子と一緒に)
思い詰めた、必死の懇願。
その言葉に、ヨハンとミーナは、静かに顔を見合わせた。驚きはなかった。心のどこかで、この賢くて感受性の強い末娘が、きっとこう言い出すのではないかという、予感があったからだ。ヨハンは、娘の前にそっとしゃがみ込むと、その視線の高さに合わせて、静かに言った。
「アンナの気持ちは、よく分かるよ。でも、フィンランドの学校もすぐ始まる。帰らないと」
その優しい拒絶に、アンナの青い瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
“Vielä vähän! Haluan jäädä!”
(もう少しだけ! お願い、ここに残りたいの!)
ソフィアが日本に行くと決まったあの日、声を上げて泣いたアンナ。それからずっと、寂しさをこらえ、姉の夢を応援し、自分もいつか日本に行くのだと、一生懸命に頑張ってきた。その姿を、ヨハンとミーナは誰よりも良く知っていた。杏子という、素晴らしい友人に出会えた喜び。そして何より、大好きな姉、ソフィアとも、もっと一緒に居たいという、切なる願い。その全てが、その潤んだ瞳の中に映し出されていた。
部屋の隅で、ヘッドフォンをして携帯ゲームに没頭していた兄のラウリが、画面から目を離さないまま、ぽつりと呟いた。
「……おれも、ほんとはもう少し残りたいけどな」
その声に、全員の視線が集まる。
「日本って、ほんとに面白いよ。まあ、おれは学校があるから帰るけどさ。……パパ、ママ。アンナは、もう少しだけ、ここに居させてやろうよ」
一見、無関心なようでいて、誰よりも妹の心を理解している兄からの、不器用な助け舟。それが、両親の心を決める、最後の一押しとなった。ヨハンは、ミーナと再び目を合わせ、そして、静かに、しかし強く頷いた。
ヨハンは立ち上がると、黙って一部始終を見守っていたエリックに向き直った。
「エリック。アンナを、頼めるかい?」
その短い問いに、エリックは、力強く頷き返した。
「ああ。私が、責任を持って面倒を見る。何も心配はいらない。安心しなさい」
その隣で、妻のリーサも、優しく、そして静かに頷いていた。
その光景を見て、アンナは、ぱっと顔を上げた。信じられない、といった表情で、彼女は叫ぶ。
“Voin jäädä!? Kyokon kotiin! Nukun Kyokon kanssa!”
(残って、いいの!? 杏子の家に! 杏子と一緒に寝る!)
その、あまりにも純粋な次の願いに、ミーナは苦笑しながら首を振った。
「こら、アンナ。それは、まだ決められないわ。杏子さんのご家族に、きちんと許可をいただかないと」
不安そうな顔を見せるアンナに、エリックがそっと近づき、その耳元で囁いた。
「大丈夫だよ、アンナ。杏子ちゃんのおじいちゃんのことは、よく知っている。きっと、大歓迎してくれるさ」
アンナは、今朝の散歩のことを思い出す。体つきも顔も全然違うのに、どこかエリックと同じ、温かくて、少しだけお茶目な匂いのする、杏子のおじいちゃん。エリックと一緒だ。大好きだ。
エリックが、杏子の家に電話をかける。スピーカーフォンから、呼び出し音が響いた。アンナは、心臓が口から飛び出してしまいそうなほどのドキドキを、小さな胸に両手を当てて、必死に抑えていた。
“Eikö niin? Eikö niin?”
“Joo, saanko?Saanko?”
(いいよね? いいよね?)
祈るような小さな呟きが、何度も繰り返される。
数秒後。電話の向こうから、聞き慣れた、力強い声が響き渡った。
『もちろん! 全く問題はありません! 大歓迎じゃ!』
隣で、杏子の祖母の、ふふっと笑う優しい声も聞こえる。
『ええ、ぜひ、いらしてくださいな。お食事はこちらで色々と工夫しますから。何か、好き嫌いはありますか?』
電話をかけて、通訳係を請け負っていたエリックが、その言葉をヨハンとミーナに伝える。ミーナは、電話の向こうにいるであろう杏子の祖母に向かって、深く頭を下げるように、声を低くして応じた。
「本当に、ありがとうございます。ご迷惑をおかけします。申し訳ありません、どうか、よろしくお願いいたします」
エリックが訳すまでもなく、その声に含まれた深い感謝と誠意は、言葉を越えて、杏子の祖母の心に確かに届いていた。
『いいえ、いいえ、どうか気になさらないでください。私たちの方こそ、とても楽しみです』
言葉が通じなくても、心は通じ合う。その温かい事実に、部屋にいた誰もが、胸を熱くした。
スピーカーを止め、エリックが、杏子の祖父と続けて話す。
「大変失礼とは思うが、少しばかり食費としてお渡ししたい。どうか、受け取ってほしい」
『エリックさん、君は、去年の夏にわしがお礼をしようとした時、えらく怒ったじゃないか。……けれど、わしは君と違って大人じゃから、怒ったりはせんよ』
電話の向こうで、祖父が笑いを堪えているのが分かった。
『ただし、一つだけ、お願いがある。アンナちゃんに水筒を持たせて、君の自慢のコーヒーを、毎日少しだけ、淹れてやってくれんかのう?』
「……ああ、分かった。それならば」
エリックも、微笑みながら応える。
「空っぽになったその水筒に、今度は、君の世界一の紅茶を、淹れて返してくれるかい?」
二人の穏やかな笑い声が、互いの家のリビングに、温かく響き渡った。
電話が終わり、アンナはエリックの胸に飛びついた。
「おじいちゃん、ありがとうっ!」
「お礼は、パパとママにな」
そう言われたアンナは、今度は、ヨハンとミーナに順番に力いっぱい抱きついた。
そして、ゆっくりとラウルにも。
ヨハンは、そんな娘の頭を優しく撫でながら、言った。
「よかったな、アンナ。ただし、約束だ。学校の授業に遅れることになるんだから、その分、ソフィアと杏子ちゃんが学校に行っている間は、ここでエリックおじいさんと、しっかり勉強するんだぞ」
「そうだとも。算数も国語も、毎日やるからな」
エリックが、静かに、しかし厳しく頷く。
一瞬だけ、アンナは「えー」と顔をしかめたが、すぐに、ぱっと満開の花のような笑顔に変わった。
“Joo! Minä opiskelen! …Ja olen Kyokon kanssa!”
(うん! わたし、勉強する! ……そして、杏子と一緒にいる!)
小さな拳を固く握りしめ、ぴょんぴょんと飛び跳ねるアンナの姿を見て、部屋にいた大人たちは皆、思わず笑い合った。
その純粋な喜びの光が、旅立ちの朝の、ほんの少しだけ寂しかった空気を、すっかりと晴れ渡らせていた。




