第294話 おはよう、とHanaとSoraと
冬の朝、まだ静かな寝息を立てるソフィアの隣で、杏子は、息を殺すように、そっと布団から抜け出そうとした。昨夜、べったりと身体の側面に張り付くようにして眠っていたアンナの、温かい重みを感じながら。
しかし、杏子の身体がわずかに離れた、その瞬間だった。
“Ah, Kyoko, minne sinä menet?”
(あ、杏子、どこいくの?)
こっそりと抜け出す計画は、あっけなく失敗に終わった。アンナが、ぱちりと大きな青い瞳を開けて、杏子を見上げていた。その声に、杏子は微笑みで応える。
“Morning, Anna. I’m taking Grandpa for a walk. Wanna come?”
(おはよう、アンナ。おじいちゃんと散歩にいくの。あなたも来る?)
“Joo!”
(うんっ!)
アンナは、一瞬のためらいもなく、元気よく頷いた。その声に、隣の布団で眠っていたソフィアが、うっすらと目を開ける。
「ん……あれ? まだ、こんなに早い時間じゃない?」
「おはよう、ソフィア。おじいちゃんと、少しだけ散歩に行ってくるね。ソフィアは、まだゆっくり寝てていいよ」
杏子の言葉に、布団から飛び起きたアンナが、いたずらっぽく笑いながら続けた。
「わたしは行ってくる! お姉ちゃんは、まだ寢てていいよ!」
バタバタと音を立てて着替えるアンナと共に、そっと部屋を出る。玄関で待っていた祖父は、アンナの姿を見ると、目を丸くして、そして、すぐに嬉しそうに顔をほころばせた。
「おお、アンナちゃんも来たのか。早起きじゃのう」
アンナは、祖父に向かって、にこっと笑いかけた。
“Huomenta, ukki.”
(おはよう、おじいちゃん)
そう言った瞬間、はっとしたように言い直す。
“Good morning… Grandpa.”
「お、おお。おはよう、アンナちゃん」
祖父は、少し照れくさそうに、そして、知っている限りの英単語を懸命に記憶の引き出しから引っ張り出してくる。
「えーと……グッモーニン、アンナ。ユー・アー・ベリー・キュート。プリティ。うむ。さあ、レッツ・ゴー」
その、あまりにもぎこちない、しかし愛情だけは十二分に伝わってくる挨拶に、横で杏子がくすくすと笑いを堪えている。
三人の影が、朝の光の中で長く伸びる。冷たく澄んだ空気が、肺を満たすたびに、頭の中がすっきりと冴え渡っていくようだった。
「アンナ。ウォーク、ウォーク。ナイス・モーニング」
「Yes! Morning! Nice sky!」
アンナは、嬉しそうにぱっと笑顔で返す。
「Blue… blue sky. Very… good day」
祖父が空を仰ぐと、アンナも真似して、小さな両手をいっぱいに広げた。
「Blue! Big blue!」
言葉の断片と、身振り手振り。意味が正確に伝わっているのかどうかは、少し怪しい。けれど、二人の間で交わされる笑顔と、弾むような声だけで、その雰囲気が十分に楽しいものであることは、誰の目にも明らかだった。杏子は、その微笑ましいやり取りを少し後ろから見守りながら、幸せな気持ちで歩いている。
不意に、アンナが立ち止まり、両手を前で合わせて、小さく首をかしげた。
“Kyoko… Grandpa… teach me. Nihongo. Japanese words!”
(杏子、おじいちゃん。教えて。日本語。日本の言葉!)
その真剣な眼差しに、祖父は目を丸くし、そして、急に背筋をしゃんと伸ばした。
「よしきた! グランパ・ティーチャー、OK!」
その宣言に、杏子がとうとう噴き出した。
「まずは基本の挨拶じゃな。『おはよう』だ」
祖父が、お手本を見せるように、一音一音を強調して言う。
「O-ha-yo-u」
アンナは、真剣な顔で祖父の口元を見つめ、そして、一生懸命に復唱した。
「O…ha…yooo!」
なぜか最後の音節が、牧場の牛の鳴き声のように、のんびりと伸びてしまう。杏子は、そのかわいい発音に、胸が熱くなる。
「次!『元気?』じゃ。これは、How are you? と同じ意味じゃな」
祖父が、両手で力こぶを作るように、元気いっぱいのガッツポーズを見せる。アンナも、それを真似て、小さな拳をきゅっと握りしめた。
「Genki? Yes! Genki!」
「おお、うまい!」と祖父が拍手する。
次に、祖父はどこまでも広がる冬の空を見上げた。
「『空』」
「So…ra!」
「うまい!」
さらに、地平線の向こうから昇ってきたばかりの、柔らかな太陽を指差す。
「『太陽』」
「Tai…yo!」
「Great! ワンダフル! すごいのう、アンナ・サンシャイン!」
アンナは、褒められたことが嬉しくて、誇らしげに胸を張る。杏子はその横で、笑いながらも、なんだか少しだけ、心がじんわりと温かくなっていた。言葉の種が、こうして一つ、また一つと、この小さな友人の心の中に蒔かれていく。その尊い瞬間に立ち会っていることが、たまらなく嬉しかった。
三人の散歩道は、いつしか、ちょっとした語学教室であり、笑い声のこだまする、小さな小さな舞台になっていた。
散歩の途中、祖父がふと、古い民家の生垣を指差した。
「見てみぃ、アンナちゃん。あの庭の山茶花が、綺麗に咲いとるぞ。赤い“はな”じゃ」
「Hana…? Flower? Hana!」
アンナは、目を輝かせて、その濃い桃色の花を指差した。
杏子も、その花のそばに近づいて、微笑んだ。
「それは、“山茶花”っていう、特別な名前があるんだよ。英語だと、“camellia”って言うんだ」
「Sa…zan…ka. Camellia.」
アンナは、新しい言葉を覚えるのが楽しくて仕方ない、といった様子で、一生懸命に繰り返す。
祖父は、誇らしげに頷くと、次の教材を探すように、きょろきょろと辺りを見回した。
「ほれ、あそこの梅の木も……“ume”……(←少し自信なさげに)……もう、蕾が膨らんどるな」
「Ume… blossom? Ume flower!」
三人が、一つの庭先の花を囲んで、顔を寄せ合う。冬の朝の冷たい光の中で繰り広げられる、小さな“国際花レッスン”。その光景は、どんな名画よりも、温かく、そして美しかった。
ただいま、レッスン中。




