第292話 世界一決定戦
「Kyokoといっしょに寝る!」
アンナは、夕食が終わる頃にはすっかりその気になっており、テーブルの下に潜り込んで、小さな砦を築いている。
ソフィアが「杏子とわたし、明日から学校なんだよ」と優しく説得しても、「わたしもKyokoの学校に行く!」の一点張りだ。
祖父が、「わしは歓迎やけど、ご両親はどうかな? まずはちゃんとご両親の許可が必要じゃなあ」とぼんやりと呟いた。
仕方なくソフィアが両親──ヨハンとミーナ──に電話を入れると、受話器の向こうから、呆れたような、それでいて優しい母の声が聞こえてきた。
『……分かったわ。じゃあ、明日の朝、そちらに迎えに行くから、それでいいかしら?』
その言葉に、アンナは「Yes!」と叫んで飛び跳ねた。
ただ、着替えがないのは困る。急遽、祖父のエリックと母、ミーナが、彼女たちの着替えを届けてくれることになった。母は、最後の説得を試みるつもりだ。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴る。
「やあ、お邪魔しますよ」
現れたエリックは、にこやかな笑顔で、大きな魔法瓶を抱えていた。
夏の高校総体の時、エリックの影響力に助けて貰った杏子の祖父は、力強く握手を交わした。
「ほんのお礼の印に、わたしのコーヒーをどうぞ。フィンランドから持ってきた豆で淹れた、世界一の自信があります」
ポットの蓋が開けられた瞬間、湯気と共に、香ばしく、そして深いアロマがリビングにふわりと広がった。
その一杯を口にした途端、杏子の祖父母も、ソフィアも、そして杏子も、全員が目を丸くした。
「……美味しい!」
杏子は、ソフィア宅で、何度も御馳走になっていたが、いつものコーヒーより、いっそう味が冴えているようだった。
全員からの惜しみない絶賛に、エリックは満足げに頷いた。
そこへ、すかさず杏子の祖父が、腕を組んで立ち上がった。
「ま、まあ、確かにうまい。じゃがな……! 世界一は、わしの淹れる紅茶じゃ!」
その、あまりにも唐突な宣戦布告に、場の空気が一瞬固まる。
エリックが、面白そうに片眉を上げた。
「……紅茶? まあ、悪くはない飲み物ではあるが、やはり美味しいのはコーヒーだろうな」
「いやいや! 悪くない、どころではない! 世界一なんじゃ!」
祖母が呆れたように止めようとしたが、もう遅い。二人のジジイの、小さな、しかし絶対に譲れないプライドを賭けた戦いの火蓋は、切って落とされた。
まるで、日本対フィンランドの戦いのような勢いだった。
「論より証拠じゃ!」
祖父は、慣れた手つきで愛用のポットとカップを用意する。しゅんしゅんと湯が沸き、茶葉が開くと、リビングは、ベルガモットの甘く華やかな香りに包まれた。
カップを手渡されたエリックは、警戒するように、まずその香りを確かめ、そして、ゆっくりと一口──。
「……!」
その青い瞳が、驚きに見開かれた。
「これは……! この芳醇な香りと、深い味わい……! こんな紅茶は飲んだことがないっ。まるで魔法じゃ。これはまさにコーヒーに、匹敵する!い、いや・・・」
コーヒーが苦手な人には、これはまさに最高の一杯になるかもしれん・・・。その言葉は胸にしまい込んだ。
その、あまりにも素直な賞賛の言葉に、杏子もソフィアも思わず息を呑む。特にソフィアは、エリックじいちゃんが、こんなに素直に認めるとは驚いた。
ソフィアも、時々杏子宅で紅茶を御馳走になることはあったが、これほどまでの紅茶は初めてだった。
アンナだけは、よく分からないまま、「Kyokon vaari voitti!” (Kyokoのおじいちゃん、勝ったー!)」と大喜びしていた。
なるほど確かにアンナには、コーヒーよりも紅茶の方が飲みやすかったのかもしれない。
だが、勝者のはずの祖父は、逆に少し気まずそうに頭を掻いた。
「いや、実はのう……。エリックさんの、さっきのコーヒー。あれは、わしが生まれてから飲んだ中で、間違いなく最っ高の一杯じゃった。じゃから、つい、意地になってしもうてのう……」
勝ち誇るかと思われた杏子の祖父の、意外に正直な感想。
エリックが素直になったおかげで、杏子の祖父も素直になれたんだろう。
「そうか! やはり、そうだろう!」
今度はエリックが、バンッと机を叩き、満面の笑みで元気を取り戻した。
「わたしのコーヒーは、世界一! だが、この紅茶もまた、世界一! 我々二人が揃えば、向かうところ敵なし、最強だ!」
「おおっ! それは、ええのう!」
違う国で育った二本の古い木が、ようやく出会い、枝を絡ませ合ったかのようだった。二人は腹の底から大笑いし、それぞれのカップを、高々と掲げ合った。
ハラハラしながら見守っていたソフィアと杏子も、ほっと肩をなでおろし、くすっと笑いあった。
アンナはと言えば、祖父たちのやりとりを真似て、
「Kyokoの紅茶も世界一! アンナのオレンジジュースも、世界一!」
と、意味不明なことを叫びながらぴょんぴょん跳ね回り、リビングは、さらに賑やかな笑い声で満たされた。
杏子はそんな二人を見ながら、思い出した。
そういえば、紬も、一華も、エリックさんと杏子のおじいちゃんはそっくりだって、言ってたっけ。
そして、母、ミーナの最後の説得も、アンナは、
「En halua! En tahdo! Ei! Eiii~! En millään!」
(いやだ!いや!いーーや!ぜったいイヤ!)
と全く聞き入れる気がなく、無事にアンナは、泊まることになった。




