第290話 コーチの訓話と、懲りないひとたち
短い正月休みが明け、一月四日、練習が再開された。元旦に特別な初射会を行ったとはいえ、部員たちの意識の中では、今日が事実上の「稽古始め」だった。道場の扉を開けると、しんと冷え切った空気が肌を刺す。けれど、その空気はどこか清々しく、新しい年の始まりを告げているようだった。
「あけましておめでとうございます!」
「今年も、よろしくお願いします!」
改めて全員で挨拶を交わし、練習へと挑む。
「今日は休み明けの初日だ。いきなり無理せず、身体を慣らす程度に、ゆっくり進んでいこう」
拓哉コーチは一応そう声をかけるが、始まった準備運動も、その後の基礎練習も、まるで通常通りの密度と熱量を帯びていた。
「……コーチ、確か、『今日はのんびりやる』って、言いましたよね?」
すでに額に汗を浮かべた真映が、恨めしそうに呟いた。
そして、今日。一人の射手にとって、新たな挑戦の幕が開けようとしていた。
栞代。長かった「弓禁止令」が、ついに解かれる日が来たのだ。彼女は、新しい射型である「斜面打起し」の練習に入る。まずは、鏡に向かってゴム弓を手に、基本となる姿勢を確認するところからだった。
「栞代。とにかく、慌てるな」
拓哉コーチが、いつになく真剣な表情で彼女に伝えた。それは、単なるアドバイスではない。杏子を思う気持ちから、逸る気持ちを抑えきれず、突っ走る性根を見抜いた上での、厳しくも温かい戒めだった。杏子の内弟子ともいえる栞代は、射法八節の基本は完璧に身体に染み付いている。それを、敢えて一度更地にし、新しい城を築き直す。それは、一度覚えた母国語を忘れ、全く新しい言語を一から学ぶような、途方もない作業に違いなかった。
体が的の方向に流れやすくなる癖。三重十文字の維持。身体の中心を貫く正中線の意識。注意すべき点はいくつもあるが、同時に、より少ない力で、より強い矢を放てるという利点もある。コーチは、その一つ一つを、丁寧に、言葉を選びながら伝えていた。
栞代は、コーチの完璧な射の形を、一華が撮ってくれたビデオで、それこそ網膜に焼き付くほど見ていた。だから、理論は、頭では理解しているつもりだった。しかし、いざゴム弓を手にしてみると、身体は正直だ。長年慣れ親しんだ正面打起しの動きをしようと、筋肉が勝手にざわめく。その内的な抵抗を、一つ一つ、意識の力で押さえつけていく。
その様子を、一華が三脚に立てたカメラで、静かに撮影していた。
焦ることはない。けれど、私たちは、あなたの挑戦を、全力で支える。
それは、カメラのレンズを通して伝わる、一華の無言のエール。そして、息を殺して栞代の最初の動きを見守る、弓道部員全員の思いでもあった。
午前中の、一応「公式」という形の練習が終わる。コーチが部室を確認すると、どうやら、またしても全員がお弁当を持参しているようだった。つまり、午後も全員が、自主練習に参加するということだ。その光景を見て、コーチは少しだけ困ったように笑うと、全員に声をかけた。
「二日と三日、強制的に休暇にしたが、ちゃんと家族と過ごしたか?」
ぱらぱらと、気の抜けた返事が返ってくる。コーチは、その返事を聞くと、少しだけ真剣な眼差しになった。
「ずっと練習に打ち込むのも、まあ、それは君たちの自由だ。だが、正直に言うと、君たちを見ていると、時々、不安になる」
その静かな語り口に、部員たちの視線が自然とコーチへと集まる。
「高校生活は、クラブ活動だけが全てじゃない。勉強はもちろんだが、それだけじゃない。一つのことに真剣に取り組むのは、何よりも素晴らしいことだ。だがな、君たちは“勝つための選手”である前に、“この先を生きていく人間”なんだ」
コーチは、ゆっくりと、一人ひとりの顔を見ながら続けた。
「弓を引くとき、的に中るか外れるかだけが、全てじゃないだろう? そこに至るまでの歩み方、仲間とのやりとり、そして、放った矢のあと、どうやって再び立ち上がるか──そういうもの全部が、君たちという人間を形作っていくんだ」
「十年後、二十年後に、君たちが弓を握っていなくても、きっと、ここで過ごした時間は残る。的を睨んだ視線の鋭さも、仲間と笑い合った声も、どこかで必ず、君たち自身を支える力になる。俺は、それを一番大事にしてほしいんだ」
「そして──弓から離れる時間も、同じくらい大切にしてほしい。弓に関係ない友達も居るだろう? もっと遊べ。家族と過ごせ。友達と、どうでもいい馬鹿なことで腹を抱えて笑え。そういう、一見無駄に見える時間こそが、君たちの心を豊かにする。矢は一度放てば、二度と手元には戻らないだろう? それと同じで、高校時代のこの時間も、一度きりなんだ」
コーチは、そこで一度、言葉を切った。
「だからな、勝つためだけに、高校生活はあるんじゃない。泣いたり、笑ったりしながら、ひとりの人間として、強く、そして優しくなっていくために、高校時代はあるんだ。……それを、忘れないでほしい。だから、自主練習なんか休んで、もっと遊べ」
静謐が、道場を包んだ。コーチの言葉が、冬の乾いた土に染み込む温かい雨のように、部員たち一人ひとりの胸に、じんわりと染み渡っていく。
その静寂を破ったのは、杏子の、ぽそりとした呟きだった。
「そういえば……わたしが最初に弓をやりたいって言った時、中田先生にも、同じようなこと、言われたなあ。『いっぱい“やんちゃ”をして、おじいちゃんとおばあちゃんを困らせろ』って。『それが、今できる、一番の弓の練習だ』って。『やんちゃじゃなけりゃ、矢はあたらん』って……。……なんだか、なんでも通じるんだなあ」
「ほー。部長~。それって、何歳くらいの時のお話ですか?」
真映が、興味津々で尋ねる。
「うーん……。幼稚園の時、かなあ」
「はあっ!? そんな時から、弓道やるつもりだったんですか!?」
「え? ま、まあ、そう、かな? でも、実際に練習を始めるようになったのは、小学生になってからだよ」
「しょ、しょうがくせい……!?」
「い、いや、多分、普通だよ……?」
真映は、天を仰いだ。
「宇宙人の正体、見た……。ぶちょう~……。世の中にはですね、ゲームとか、マンガとか、デートとか、映画とか遊園地とか、もっと楽しいことが、いーーーーっぱいあるってこと、ご存知です?」
呆れ果てた真映の言葉に、他の部員たちも、呆れるのが半分、感動するのが半分、といった複雑な顔で頷いていた。
「ま、まあ、そういうことだ。だから、時間を大切にな。自主練習は、休めよ」
コーチが、話を締めくくる。
「「「はいっ!」」」
全員の力強い返事が、道場に響き渡った。
……のだが。
昼食が終わり、そろそろ道場を閉めようかとコーチが戻ってくると。
「楓、肩開いてるよっ」
「真映! 的前では集中!」
「杏子部長、お願いしますっ!」
乾いた弦音が、次々と小気味よく響き、矢羽根が勢いよく風を切って飛んでいく。道場いっぱいに広がるのは、真剣な顔と、檄を飛ばす声と、そして弾けるような笑い声。その光景は、つい先ほどまでの「休め」という有り難い訓話を、全員が綺麗さっぱり忘れ去ってしまったかのようだった。
コーチは、しばしその場で立ち尽くし、やがて、額を押さえて、ゆっくりと天を仰いだ。
「……君たちは、本当に、弓を離れる気がないのか、それとも、俺の話を聞く気が、これっぽっちもないのか……」
その時、ひときわ大きな声が、道場に響き渡った。
「よーしっ! 『おじいちゃんおばあちゃんを困らせる“やんちゃ”が弓の上達に繋がる』ってことなので──さっそく今日、わたし、部長のお家にお邪魔して、おじい様を困らせたいと思いますっ!」
真映が、満面の笑みで拳を固めている。
「や、やめてっ!」と杏子が慌て、コーチは、ついに、がっくりと肩を落とした。
「……俺の、あの感動的な説教は、一体、どこへ行ったんだ……」
冬の道場に、澄み切った矢の音と、懲りない彼女たちの笑い声が、響き渡っていた。
そして、いつも通り、杏子がすっと弓を持ち、的前に立つ。その瞬間、賑やかだった道場の空気が、すうっと引き締まった。
自主練習、のほんとの始まりでもあった。




