第288話 化粧の道、心の静寂
山に分け入る道は、冬特有の静謐さに包まれていた。幾重にも連なる杉の大木が天を覆い、その梢の隙間からこぼれる陽光が、斜面にうっすらと積もった雪をきらきらと照らし出している。道の両脇に並ぶ苔むした石灯籠は、まるで白い帽子をかぶったかのように、その笠に雪の縁取りをしていた。車の窓越しにゆっくりと流れていく景色は、日常にある街のそれとはまるで違う、清らかな空気を纏っている。その空気が、杏子の胸の内を、静かに、そして深く震わせた。
「おい、杏子。ほら見ろ、あそこ、もう参道の入口だぞ」
ハンドルを握る父の声は、いつになく弾んでいる。世界中を飛び回る多忙な彼が、こうして全てを忘れたかのように、ただの父親の顔に戻る瞬間。助手席の母が、「あなた、危ないから前を見て運転して」と苦笑しながらも、その頬には、夫と同じ種類の柔らかな笑みが浮かんでいた。
宿に着く前に、まずは伽藍の参拝に向かった。雪をいただいた朱塗りの大塔が、突き抜けるような冬の青空を背景に、凛としてそびえ立っている。ゴォーン、と山全体を揺るがすかのように、鐘の音がひとつ、深く長く響くたび、杏子は胸の奥深くまで共鳴するような感覚を覚えた。普段、弓道場で聞く鋭い弦音や、的を射抜く乾いた音に身を慣らしているはずなのに、この悠久の時を刻むような響きと静寂の中では、自分の心臓の鼓動すら、あまりに性急で大きすぎるように思えた。
母は、本堂の前で静かに両手を合わせながら、白い息と共に呟いた。
「こうして、ただ心を鎮めるだけの時間って、案外、一番大事なことなのかもしれないわね」
その横顔は、杏子が物心ついた頃からずっと見てきた、穏やかで優しい母の顔。それなのに、この神聖な場所では、どこか初めて見る人のように、新鮮で、そして少しだけ神々しく見えた。
奥の院へと続く参道は、雪を踏みしめる音だけが響いていた。きゅ、きゅ、と鳴るその音は、まるで雪と対話しているかのようだ。樹齢千年を超えるという杉の巨木が、天から降りてきた神々の柱のように立ち並び、歴史そのものを閉じ込めたような、冷たく、そして清浄な空気が漂っている。杏子は、ふと、祖父母が大切にしてきた伝統や、目には見えない時間の重みを思った。そして、その感覚を、弓を引く瞬間に、すっと背筋が伸びるあの感覚と、静かに重ね合わせた。
「杏子」
父が、小声で、しかし確信に満ちた声で言った。
「お前の弓道も、きっと、こういう気の遠くなるような“積み重ね”の上にあるんだろうな」
杏子は、言葉にはしなかった。ただ、深く、そして静かに頷いた。
その日の夕刻、一家が選んだのは、宿坊ではなく、山の麓に佇む静かなホテルだった。畳の上でいただく精進料理の膳も魅力的だったが、母の「せっかく三人だけなのだから、夜は誰にも気兼ねなく、ゆっくり語り合いたいわ」という一言に、誰も逆らうことはできなかったのだ。部屋の大きな窓からは、夕暮れの光に染まる雪化粧の山並みが、一枚の絵画のように広がっている。柔らかな間接照明が、部屋全体を温かく包み込んでいた。
「わたし、今日の精進料理、本当にびっくりした」
杏子は、ふかふかのベッドの上に胡坐をかいて言った。「ごま豆腐が、あんなにとろりとして、濃厚な味がするなんて、知らなかった」
「あの、大きなしいたけの含め煮も絶品だったわね。出汁の味が、じゅわっと染みていて。今度、家でも挑戦してみようかしら」母が笑いながら答える。
父は、窓辺に立ち、刻一刻と深い青色に変わっていく外の景色を見やりながら、肩をすくめた。
「でも、こうして、何でもない話をしながら、普通にご飯を食べて、普通に温かい布団で眠れる。それが、一番ありがたいことなんだな、と、こういう場所に来ると、つくづく思うよ」
風呂上がり、一つの部屋に三つの布団を並べ、川の字になって横になる。昨夜、祖父母と眠った、少し不格好な川の字とは違う、自分という存在の原点である、完璧な川の字。窓の外は、星さえ凍てつくような寒さだろう。けれど、羽毛布団の中は、両親の体温と、穏やかな愛情に満たされたぬくもりに包まれている。
「杏子」
母が、布団の中から、優しい声で呼びかけた。「あなたはきっと、今も弓道のことばかり考えているでしょう。それは、あなたの素晴らしいところよ。でもね、今日みたいな静かな場所で、弓のことも何もかも忘れて、ただ心をからっぽにして休めること。それも、忘れないでね」
「……うん」
杏子は、小さく返事をし、天井を見上げた。
父が、ぽつりと呟いた。「次は、じいちゃんたちも、一緒に連れて来たいなあ」
すると、母がすぐにくすりと笑う。「でも、その時はきっと、おじいちゃん、はしゃぎすぎて、あなたより大変なことになるわよ」
その光景が目に浮かんで、杏子は思わず声をあげて笑ってしまった。
「その時は、わたしが案内するから、大丈夫。ちゃんと、弓のことも、ここにある静かな時間のことも、二つを繋げて、おじいちゃんたちに伝えられるように」
雪明かりが、障子を通して部屋をほのかに照らす夜。杏子は、ゆっくりとまぶたを閉じながら、確かなことに気づいていた。
──自分と向き合う、孤独な弓の道。そして、ただそこに在るだけで自分を包んでくれる、温かい家族との時間。
その二つは、決して別の道ではない。どちらもが、これからの自分を支え、未来へと続く一本の道を、力強く照らしてくれる光なのだと。
その大きな安らぎの中で、杏子の意識は、静かで、そして深い眠りの中へと、ゆっくりと沈んでいった。




