第286話 杏子不在の杏子宅
リビングの時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。
杏子が、両親と共に一泊旅行へと出かけていったのは、ほんの数時間前のこと。いつも聞こえるはずの、穏やかな声や、時折響く笑い声がないだけで、この広い家は、まるで主を失ったかのように静まり返っていた。
「ふぅ……。なんや、ぱみゅ子が居らんとなると、事件が起きても、解決できん気がするのう」
こたつに寝転びながら、祖父が天井に向かってぽつりと呟いた。
「いつも自分一人で解決してるつもりなのに?」
台所で昼食の準備をしながら、祖母がくすりと笑う。
「あの的確なツッコミがないと、わしのボケだけが永遠に続いて、世界がとんでもないことになりそうじゃ」
旅立つ前の早朝、杏子はいつも通り、祖父を散歩に連れ出し、二人だけの時間をゆっくりと作ってくれた。その優しさが、今はかえって寂しさを募らせる。
「去年は合宿も長かったし、なんだか、ぱみゅ子と居る時間が少ない気がするなあ」
「半分は、予定に割り込んで、無理やりおしかけてたじゃない」
「そ、そんなことはないわいっ!」
「そんなに暇を持て余しているのなら、やることは沢山ありますよ。部屋の整理整頓とか、お風呂掃除とか、たまりにたまった不要品の処分とか」
「うっ……。い、いや、こんな時こそ、きゃりーぱみゅぱみゅ様への理解を深める、絶好の機会じゃ! そういえば新曲が出たから、ファンとしての義務である振付を完璧に覚えねばならん! 集中するから、部屋にこもるぞ!」
祖父はそう捨て台詞を残すと、そそくさと自室に籠もってしまった。その背中には、隠しきれない寂しさが漂っている。祖母は、やれやれといった風に微笑みながら、いつも通り、淡々と家事をこなしていた。
昼食の時も、祖父はどこか静かだった。食後、いつものように、祖母にみかんを差し出しては、剥いてもらったそれを、小さな子どもみたいにちょこちょこと口に運んでいた、その時だった。
ピンポーン、と玄関のチャイムが、静寂を破るように軽やかに鳴った。
祖母が玄関に向かうと、すぐに、リビングまで突き抜けるような、明るい声が聞こえてきた。
「おじいちゃんっ! 去年のリベンジ! リターンマッチに来ましたよっ!」
その声を聞いた瞬間、祖父の顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。
「お、おお! 真映さんか、どうしたんじゃ、突然」
「当然、今日も弓を引く予定だったものですから、突然時間が空いてしまって、ヒマでヒマで! もううちの家族なんて、わたしは居ないものとして、とっくに計画を立ててたんですよ~っ! がはははは~! これも全部、部長が旅行に行っちゃったせいです! 捨てられた者同士、仲良く遊びましょうよ!」
リビングに現れた真映は、マシンガンのように言葉を撃ち放った。その勢いに出端を挫かれ、祖父は「お、お、おう」としか応えられない。
真映の後ろから、ひょこっと顔を出したのは楓だった。
「お、おや、楓さんも来てくれたのかい?」
「お、お邪魔します、おじい様……! 部長がご不在の時に、部長のお家にお邪魔するなんて……なんだか、すごく、ドキドキしちゃいます……!」
「楓は、いつもドキドキしてるだろ」
真映のツッコミに、楓が「そ、そんなことないです!」と顔を赤らめる。二人の突然の来訪に、すっかり面食らいながらも、祖父の口元には、もう隠しきれないほどの嬉しさが滲んでいた。
「し、仕方ないのう。それじゃあ、世界一の紅茶でも淹れてやるとするか」
「おじいちゃん、全部で、五人分、お願いしますね」
真映の言葉に、祖父が首をかしげる。
「五人? おばあちゃんを入れても四人のはずじゃが?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、玄関から、もう一人、見慣れた顔がリビングに入ってきた。祖母と一緒に入ってきた、栞代だった。
「おじいちゃん、オレも来たよ。あけましておめでとうございます。……って、昨日も言ったか」
「あっ!」
真映と楓が、同時に素っ頓狂な声を上げた。そして、はっとしたように、祖父母に向かって深々と頭を下げる。
「「あけましておめでとうございますっ! 今年もよろしくお願いしますっ!」」
どうやら、祖父を驚かせることばかりに頭がいっていて、新年の挨拶がすっかり飛んでいたらしい。
五人で紅茶を飲みながら、話題は自然と、この家にいない一人の少女のことへと収束していく。
「部長って、弓しかできないインドア派かと思ってたら、意外とスポーツ万能ですよね」
「ああ。校内球技大会の時も、バスケ、そこそこ動けてたからな。体育の授業でも、何やらせても平均以上にこなすし」
「ふっふっふ。わしが小さい頃から、一緒に運動して、身体を鍛えてやったからのう」
祖父が得意げに言うと、栞代が的確なツッコミを入れた。
「へえ。ちっちゃい頃から、杏子にべったりで迷惑かけてたんだなあ、おじいちゃんは」
「ば、ばか、栞代っ。ぱみゅ子の方からだなあ、わしを離さずだなあ・・・・・」
その言葉に、祖母がたまらず、ふふっと笑い声を漏らした。




