第285話 初射会 つづき
大きな拍手と共に、年明け最初の緊張感が、ふわりと解けていった。初射会は、ひとり一射。部員たちは、張りつめた空気の中で順番に矢を放ち、的を射抜く乾いた音と、惜しくも外れる悔しい音が、交互に道場に響き渡った。
ここ一番で、驚くような集中力を見せてくるのが、今の光田高校弓道部の強さだった。しかし、ただ一人、真映の放った矢は、的の縁を惜しくもかすめ、安土へと吸い込まれていった。彼女は努めて平気な顔で、「まあまあ、こんな日もあるっしょ!」と両手を広げておどけていたが、杏子は、すれ違いざま、その耳元にだけ聞こえるように、小さな声で囁いた。
「すごく、惜しかったね。今日の姿勢、今までで一番綺麗だったよ」
その瞬間、真映の胸の奥に、じわりと熱いものが広がった。ちゃんと見ていてくれる人がいる──その揺るぎない事実が、どんな慰めの言葉よりも、心に深く、そして温かく刺さった。
道場の隅で、一華は静かにその光景を見ていた。何も言わない。ただ心の中で、(そう。データの上でも、真映の射癖は大幅に改善されている。的中率も、ここ一ヶ月で急激に上昇中だ)と、冷静に頷くだけだ。数字は嘘をつかない。それがマネージャーとしての彼女の仕事であり、誇りでもあった。今年の目標は決まってる。杏子部長の、あの完璧な姿勢チェックを、感覚ではなく数値に落とし込むこと。新しく導入される撮影機器で、彼女の全てをデータ化してみせる。
やがて全員が射を終え、男女両部長による新年の目標も示された。道場に、拓哉コーチの朗らかな声が響き渡る。
「よし、今年も始まったな。じゃあ──雑煮、できてるぞ。遠慮するなよ!」
その合図で、部員たちは控室へと雪崩れ込んだ。そこには、大きな寸胴鍋から、湯気と共に鰹出汁のいい香りが立ち上っていた。焼いた角餅の香ばしさが混ざり合い、冬の冷たい空気を柔らかく満たしていく。滝本顧問の指導のもと、一華も手伝って仕上げられたというその雑煮は、どこか懐かしい、家庭の温かさを感じさせた。
「コーチは、もちろん見てただけですよね?」
誰かが尋ねるより早く、真映がすかさずツッコミを入れる。
「絶対、何もしてませんよね!」
道場がどっと笑いに包まれる中、拓哉コーチは悪びれもせずに肩をすくめた。
「俺は、応援係だ」
(……おじいちゃんと同じこと言ってる)
杏子は、みんなの笑い声の中で、一人静かに思った。
しかし、着慣れない晴れ着に身を包んだ女子部員たちは、雑煮を食べる手つきもどこかぎこちない。
「あ、袖が……! こぼさないようにしないと」
「帯がきつくて、あんまり入らないかも……」
そんな可愛らしい悲鳴があちこちから漏れ、お椀を持つ仕草さえ、どこか慎ましく見えた。
それに比べて──持ち寄ったお菓子の前では、彼女たちは別人になった。
テーブルに並べられた甘味の山を前に、全員の瞳がキラキラと輝き、「遠慮」という言葉は、遥か彼方へと飛んでいったようだった。
杏子は、祖父が「ぱみゅ子の後輩たちに」と、またしても買いすぎてしまったみかんを、文字通り山のように持参していた。
「……これ、どうやっても減る気がせえへんな」
あかねが苦笑しながらも、その手は止まらない。そのあかねと、隣に座るまゆが差し出したのは、紅白の美しい練り切りだった。
「見た目重視や! 可愛いやろ!」と胸を張るあかねに、「柔らかいから、みんな食べやすいと思って」と、まゆが優しく微笑む。二人の息は、いつもぴったりだった。
栞代の前には、杏子の祖母が「栞代ちゃんに」と、昨夜のうちに用意してくれていた手作りのパウンドケーキが置かれている。家庭の事情を知っていて、何も用意できない自分のことを、さりげなく支えてくれる──その温かさに、彼女は言葉にできない感謝を覚えながら、一切れを大切そうに口に運んだ。
紬が持参したのは、素朴な干し柿だった。
「少し、地味すぎたかな、と思ったけど」
「ううん、これが一番落ち着く。美味しい」
杏子がそう言って微笑むと、紬の頬が少しだけ赤らんだ。(そういえば、おじいちゃんも干し柿が好きだったな。少し、持って帰ってあげようかな)と杏子は思う。
一年生組も負けてはいない。
真映は「これが一番確実で、一番みんなが好きなやつです!」と、ドヤ顔でコンビニのプレミアムシュークリームを並べる。その黄金色の山に、ひときわ大きな歓声が上がった。
楓は、少し緊張した面持ちで、手作りのクッキーの包みを開いた。
「杏子先輩のおばあ様のケーキを真似てみたんですけど……その、あまり自信は……」
一口食べた杏子は、にっこりと目を細める。
「すごく美味しいよ。優しい味がする。今度、うちで一緒に作ろうか」
その一言で、楓の頬は一気に紅く染まり、クッキーの甘さよりもずっと甘い幸福感が、胸いっぱいに広がった。
そして、つばめは、丁寧に包まれたアルミホイルをほどき、ほかほかと湯気の立つ焼き芋を差し出した。
「杏子先輩、焼き芋が好きだって……姉さんから、聞いたので」
その言葉に、杏子は思わず笑みをこぼす。
「……つぐみ~。余計なことまで妹に吹き込んで……!」
照れくさそうに頬をかきながらも、その表情はどこか嬉しそうで、場にはまた、やわらかい笑いが広がった。
食べる音、笑い声、着物の裾が擦れる、かすかな音。その全てが、新年最初の温かい記憶として、道場の古い柱や畳に、優しく刻み込まれていくようだった。
雑煮の椀を片付けながら、一華は、ほっと胸を撫でおろしていた。普段は記録や道具の管理に徹する自分が、こうして調理に加わるのは珍しい。けれど、滝本顧問に包丁の握り方から教わり、飾り切りの人参に挑戦した時間は、思っていた以上に楽しかった。「一華さん、すごく器用なのね」と褒められた時の、胸の奥のくすぐったさが、まだ残っている。
そんな感傷に浸っていると、真映がシュークリームを頬張りながら大声で叫んだ。
「いやぁ~、やっぱり正月は甘いもんに限りますね!」
「お前は、正月じゃなくてもいつでもやろ」
あかねが即座に突っ込み、周囲はまた笑いの渦に包まれる。
一華は、少し離れた場所から、その光景を静かに見渡していた。楓のクッキーを励ますように食べ、紬や栞代の不器用な笑みをやわらかく受け止め、真映の暴走を笑顔で見守っている──どんな場面にも、その中心には、必ず部長としての杏子の姿があった。
(……やはり、この弓道部は、杏子部長がいてこそ、成り立っているな)
胸の奥で静かにそう呟きながら、一華は筆記用具を手に取り、今日の記録をまとめ始めた。
「一華ちゃんも、ちゃんと食べなさいよ」
まるで、自分の祖母のような優しい調子で、滝本顧問が声をかけてくれた。
「はい……でも、記録も、残しておきたくて」
「真面目なのねぇ。でもね、あなたみたいに、見えないところで頑張ってくれる人が、一番大事なのよ」
その言葉に、一華の胸は、じんわりと温かくなった。
やがて、拓哉コーチがゆっくりと腰を上げた。
「よし。そろそろ片付けようか。このままだと、食べすぎて走りたくなってくるやつが出てきそうだ」
「いやいやいや、絶対に走りませんから!」
真映が全力で否定し、またしても大きな笑い声が広がった。
冬らしい、澄み切った夕暮れだった。
西の空は薄紫に染まり、道場の外には、新しい一年が静かに待っている。
その時、杏子がすっと立ち上がり、皆を見渡した。
「みんな。今年も、よろしくお願いします」
その声は、凛としていながらも優しく、部屋の空気を一瞬で、しかし心地よく引き締めた。
あかねが、笑ってその肩を叩く。
「こら部長、そんなに改まると、こっちが緊張するやんか」
「でも……こうして、みんなで新しい年を迎えられるのは……ほんとうに、嬉しいから」
杏子のその言葉に、誰もが、静かに頷いた。
(前部長の冴子先輩、沙月さん、瑠月さん、素敵な先輩方が、この部の土台を作ってくれた。でも、杏子。お前が、この弓道部を本当に変えて、ここまで支えてきたんだ)
栞代は、親友の横顔を見つめながら、改めて、そう思った。
それぞれが、新しい年に新しい想いを抱きながら、笑い合い、残った菓子をつまむ。道場は、最後まで、温かい光と、甘い匂いと、そして仲間たちの笑顔に包まれていた。その全てが、新しい一年を迎えるための、最高の前祝いとして、皆の心に深く、深く刻まれた。




