第284話 初射会 誓いの言葉、再び
道場の空気は、いつもとは違う、晴れやかな緊張感に満ちていた。新しい畳のような、清々しいい草の香りがかすかに漂う。
拓哉コーチは黒紋付の羽織袴で正装し、顧問の滝本先生もまた、雅やかな訪問着に身を包んでいる。普段は見慣れた男子部員たちでさえ、凛々しい紋付姿で背筋を伸ばしており、その光景はまるで、古い時代の物語の一場面を切り取ったかのようだった。
「さて……」
コーチが、その特別な場の空気を楽しむように、口元に笑みを浮かべた。
「今日は正月だ。まずは一人ずつ、今年最初の一射を放ち、新しい年の弓を祝おう」
その言葉に、部員たちの間に静かな高揚が広がる。色とりどりの着物に、きりりと襷が掛けられていく。絹の袖を押さえながら矢を番えるその所作は、普段の道着姿よりもずっと優雅で、凛とした美しさを帯びていた。
最初に射位に立ったのは、部長である杏子だった。深紅の振袖が、冬の道場の静けさの中でひときわ鮮やかに映える。
呼吸を整え、ゆっくりと弓を引き分けていく。その姿は、まるで冬の空気そのものを、一本の矢に凝縮させていくかのようだ。
ひゅっ、と鋭く弦が鳴り、矢は白い軌跡を描いて真っすぐに飛び出した。
冬の空気を切り裂いた矢は、乾いた音を立てて的の真ん中、その一点に吸い込まれた。
その瞬間、静まり返っていた道場に、温かい拍手が広がった。
続いて、一人ひとりが年の初めの一射を放っていく。
紬、あかね、そしてまゆの二年生組。栞代は、まだ弓禁止令が解けていないこともあり、まゆの介添えに専念していた。
派手やかな真映、慎ましい楓。そして、スランプからの脱出を祈る、つばめの願いを込めた一射。矢羽の音、弦の震える響き──その一つ一つが、この神聖な儀式を厳かに彩っていく。
それらを丁寧に撮影し、記録していく一華。
その後は男子が続く。
最後を務めたのは、拓哉コーチだった。水が流れるような、一切の無駄がない所作で弓を引き、矢を放つ。その矢が、寸分の狂いもなく的の中心に吸い込まれるのを見届けてから、コーチはにやりと笑った。
「オセロみたいなもんやな。最初と最後が当たれば、全員当たりみたいなもんや」
その軽口に、張り詰めていた空気が一気に和らぎ、道場はどっと笑いに包まれた。
「なるほど。それで女子が先に、つまり杏子部長を一番にしたんですねっ」真映が空気を読まず声をあげる。
だが、実は男子の部長の山下も、きっちと的中させていたのだ。男子が抗議の声をあげる。
「いやいや、ほんまに一番にやってたら、どうなってたことやらわからんで~」
真映には、ひるむということがない。
「なんせ、男子は普通に人間やけど、うちの部長は宇宙人やからな~」
道場に笑いが広がる。今日は厳かな儀式のはずだったが。
やがて笑いが収まると、コーチはふと真顔になり、部員たちをまっすぐに見渡した。
「それじゃあ、今年の目標を宣言してもらおう。じゃあ、今度は、男子部長から」
指名された山下は、一歩前に出ると、腹の底から声を張り上げた。
「地区予選を勝ち抜き、高校総体に出場して、絶対に勝ち進みます!」
その力強い言葉に、男子部員たちは「おおっ!」と大きく頷き、声をあげた。
「いつまでも主役と思うよな、おまえら」
軽口を叩く松平に、あかねがちゃかす。
「ソフィアが居なけりゃ、地が出るもんだなあ」
「う、うるさいよ」
拓哉コーチは基本的に女子を見ているとはいえ、その分、滝本顧問も復活して4年目を迎える。男子は個人戦では全国に駒を進めていたが、やはり高校弓道の華は団体。
コーチは静かにうなずき、それから、杏子に視線を向けた。
「では、女子部長」
シン、と道場が静まり返る。全員の視線が、杏子一人に注がれた。
杏子は一度、深く息を吸い込むと、胸の奥底から、あの日の誓いの言葉を、静かに引き上げた。
「金メダルを取って、おばあちゃんにプレゼントしたいです」
その声が響き渡った瞬間、栞代の世界が、まるで時が止まったかのようにスローモーションになった。
凍てつく冬の空気を震わせる、どこまでも真っ直ぐで、澄み切った声。
その声は、栞代の記憶の扉を叩き、ある日の光景を鮮やかに蘇らせた。
──あれは、入部初日。
まだぶかぶかの制服を着た、小さくて、頼りなくて、どこかおどおどしていた杏子。上級生たちの冷ややかな視線の中で、震える声で、それでも懸命に、今と全く同じ言葉を口にした、あの日の姿。
あの頃の自分は、その言葉をどう聞いていただろうか。「面白い子だな」という興味と、「本気かよ」という半信半疑。そして、そのか細い背中に向けられた、当時の三年生たちの嘲笑と侮蔑の言葉。
人の目標を嘲る三年生に、無性に腹が立った。
そして、なぜか「自分が守ってやらなければ」と強く思った、あの衝動。
栞代は、ゆっくりと、目の前の親友へと視線を戻す。
美しい深紅の晴れ着に身を包み、凛として立つ、今の杏子。
姿かたちは変わった。数えきれないほどの矢を放ち、数えきれないほどの涙を乗り越えて、彼女は強く、美しくなった。
けれど。
その瞳の奥に宿る、どこまでも純粋な光と、その唇が紡ぐ夢だけは、初めて会ったあの日から、何一つ、少しも、変わっていなかった。
(──ああ、そうだ)
栞代の胸に、熱い衝撃が突き抜ける。
(こいつは、杏子は、全然、ブレてないんだ)
初めて会ったあの日から、ずっと。たった一度たりとも、その瞳は違う場所を見ていなかった。ただひたすらに、そのたった一つの約束だけを見つめて、気が遠くなるほどの努力を重ねてきたのだ。
どうしようもない理由で去年は全国大会に出場が出来ず、今年も高校総体を棄権せざるを得なかったあの日の理不理尽さも。何度も、何度も、自分以外の出来事が、その細い腕を掴み、行く手を遮ってきた。
それでも杏子は、それら全てを静かに受け入れて、なお、前を見つめ続けている。
何が起ころうとも、全てを飲み込み、自分の力に変えてしまう、海のような、深く、そして静かな強さ。
栞代の瞳から、熱い雫が一筋、すうっと頬を伝った。
それは、単なる感動の涙ではなかった。
バスケに破れ、夢を追うことから逃げるようにしてこの高校に入学した、あの頃の自分への、少しの悔しさ。
一人ならサボれると思って入部した弓道部。
なのに、自分がそうなろうとさえしていた三年生の嘲笑を、やっぱり許せなかった。
もう一度火をつけてくれた。
こんなにも強く、まっすぐな人間の、一番側に居られることへの、どうしようもない誇らしさ。
そして、この不器用なまでに純粋な夢を、絶対に自分の手で叶えさせてやるのだという、燃えるような決意。
その全てが溶け合った、熱い一滴だった。
割れんばかりの拍手が、栞代を我に返らせる。
そうだ。この拍手も、杏子、お前が築き上げてきたものなんだ。
二年生たちも、あの日の誓いの言葉を思い出していた。
三年生に睨まれながらも、震えながらも、一切引かなかった。
そしてその目標が現実味を帯びていることに胸を熱くした。
一年生たちは、自分たちの部長の覚悟の重みを、改めて噛みしめた。
今、杏子の言葉を笑うものはいない。
それどころか、杏子の夢は、もはや彼女一人の孤独な願いではなかった。その言葉は、光田高校弓道部員全員が共に目指す、ただ一つの輝かしい道標となって、皆の胸に深く、そして熱く刻み込まれていた。
道場にいるすべての視線が、憧れと、信頼と、そして「その夢を、私たちの手で必ず叶える」という、声なき誓いを宿して、ただひたすらに杏子へと注がれていた。あの日の嘲笑は、今や遠い昔の意味を持たない残響に過ぎない。彼女の言葉は、ここにいる一人ひとりの心に火を灯す、共通の誓いとなっていたのだ。




