第282話 父母の帰宅
冬の空気は、夜になると音を吸い込む。
道場を出たときの喧噪──勝負の余韻や笑い声、湯気に包まれた鍋の匂い──は、帰り道を歩くあいだに薄れ、家の玄関を開けるころには、ふっと胸の底に静けさだけを残していた。年内最後のクラブ活動は終わった。矢はすべて射尽くし、今日の笑いも、悔しさも、仲間と一緒に道場の床板へ染み込ませてきた。
「おかえり、杏子ちゃん。手、冷たいでしょ。洗っておいで。お湯出るよ」
祖母の声はいつも通り柔らかいが、今夜はどこか弾みがある。台所では、菜箸が器にふれる乾いた音と、だしの湯気が立ちのぼる香りが忙しく交錯していた。根菜の甘い匂いに醤油の丸い香りが重なり、年越しの支度というだけで胃の奥がすでに幸福を覚える。
「おばあちゃん、今日は大変だったでしょう。豚汁におでんに甘酒。みんな本当に喜んでたよ。ありがとう。手伝うね」
エプロンを受け取り、杏子はすぐさままな板に立つ。刻みねぎの青がまぶしい。湯気で眼が曇らみそうにしながら、祖母と肩を並べる。「力を入れすぎないのよ」──それは弓でも台所でも変わらない祖母の教えだった。豆腐を掴む指先、出汁の面で泳がせる箸の角度。矢をつがえる時と同じように、余計な力を弛め、必要なところだけを確かに支える。
居間からは、祖父の「紅茶の儀式」の音がした。
ポットに温湯をくるりと巡らせ、湯を捨てると、茶葉の缶をやたら厳かに開ける。缶の蓋がこすれる金属音までもが、一世一代の舞台音楽のように扱われている。茶漉しに落とす乾いた葉の音、沸く湯の細い糸、ふくらむ香り。祖父はこれを“英国式紅茶道”と呼ぶ。もちろん自称だ。
「ぱみゅ子、今日は客人を紅茶で迎えるのがよろしい。異議は認めん」
「……はいはい」
紅茶と年越しそばの同居。家の年越しはいつも、少し不格好で、だからこそ温かい。
玄関の方から、鍵の触れ合う乾いた音。続いて、冬の夜の匂いを背負った空気がふっと入り込む。
「ただいま!」
母──真帆の声が、灯りの色を一段明るくする。
「かえったよ~」
父の声はいつもの落ち着きで、少しだけ疲れが滲む。赴任先からの帰省だ。二人で同じ白い吐息を揃えて、寒さに赤くなった頬をほぐしながら靴を脱ぐ。
「おかえり」
杏子は濡れた手を布巾で拭き、玄関まで駆け寄った。抱きしめるというほど大仰ではないのに、腕に触れた体温の確かさだけで、胸がほどける。
「大きくなった?」
「毎回それ言う」
「言いたいの。言わせて」
母の手が、未だ台所の湯気の匂いを残した髪を撫でる。父は笑って頷く。
「母さんの煮物の匂いが、もう勝ってるな。腹が負けを認めている」
居間のテーブルに薄い湯気の輪が並ぶ。祖父の紅茶は琥珀色の静けさを湛えて湯気を揺らし、年越しそばのだしは昆布と鰹の香りで喉奥をくすぐる。湯飲みの縁に唇を寄せると、ふわりとアールグレイの柑橘の香りが鼻腔に広がった。祖父は満足げに腕を組む。
「ぱみゅ子、弓はちゃんと納めたか」
「納めたよ。今日は大笑いして終わったよ」
「よし」
祖父はやけに誇らしげだ。まるで自分が的の的心を射抜いたかのように。
三人──父、母、杏子──がソファに腰を下ろす。祖母は台所と居間の間を行き来し、祖父は自慢の紅茶を二人に手渡す。
「二日と三日、どうかな」
母が湯気の向こうで視線を上げる。
「一泊だけど、近くの温泉にね。年末年始もずっと働き詰めだったから、三人で少しだけ息抜きしたいなって」
「……行けるの?」
杏子は思わず父を見た。父が頷く。
「拓哉コーチが、二日と三日は“強制休日”だって決めたと聞いた。ちょうど良いだろう。弓も身体も、休むのが仕事の日がある」
「コーチ、そんなこと言ってたな……」
道場が開かない時は、中田先生のところへ行く。いつものことと思っていたけど、予定が変わりそうだ。
杏子は弓を握らない二日間を、まだ手の内に馴染ませられずにいる。けれど、母の目に浮かんだ小さな光と、父の言葉の奥にある信頼の匂いが、迷いをやわらかく包む。
「賛成」
祖母は間髪入れずに言った。
「行っておいで。親子三人で、ね。そういうのは、必要よ」
祖母の声はだしのように澄んで、体の芯にしみる。
「わしは反対じゃ」
祖父がすぐさま腕を組み直した。
「わしも行く。湯に浸かって、みかんを五つ……いや十……」
「温泉とか全く興味ないくせに。温泉ってお風呂なの分かってるの?」
祖母は笑いながらも、するどい。
「それとも、二人じゃ嫌なの?」
静かに笑う目の奥の光に、祖父はあわてて手を振った。
「いや、いやいや、そんなことはない。全然ない。むしろ最高じゃ。そ、そうじゃ! 栞代を呼ぼう」
「なぜそこで栞代?」
杏子が吹き出す。祖父は立ち上がり、壁のカレンダーを指差して演説を始める。
「栞代さんは今、弓を握らん訓練をしておるのだろう。ならば、ここでわしの“英国式紅茶道”をもって心を鍛えるべきだ。弓を握らぬ手にティーカップじゃ。美学じゃ」
「おじいちゃん、意味分かって言ってる?」
「多分。たぶん……」
屁理屈王も旗色が悪い。
祖母がくすくす笑う。
食卓の上には、年越しらしい色が少しずつ並んでいく。茹でたほうれん草の緑、出汁を含んだ椎茸の黒、錦糸卵の黄色。箸が触れるたび、器が小さく鳴った。その音は、今年という器の底で、積み重ねてきた日々をやさしく叩いて確かめる音にも思える。
父母は道場の話を聞きたがり、杏子はあれこれ話す。真映の声がでかかったこと、楓が煮しめに涙ぐんでいたこと、コーチの矢が真ん中を穿った時の床の振動。母の笑い皺が深くなり、父の目元が柔らかくなる。話しているうちに、杏子の胸の奥で、休むという言葉への抵抗が少しずつ溶けていく。休みは、離れることじゃない。離れた場所で同じ弓を思うことかもしれない。
食後、紅茶のおかわりを前に、杏子はスマートフォンを取り出した。グループLINEのアイコンが年末仕様の賑やかさを湛えている。
《報告》
《1/2, 1/3は父と母と小旅行。コーチの強制休日もあるから、その間は道場行きません》
送信。まもなく、既読の数が雪の積もるみたいに増えていく。
最初に飛び込んできたのは真映だった。
《信じられん。部長が弓道場に来ないなんて。地球平和作戦会議?》
続けて、あかね。
《確かに予想外だが。強制休日って言ってたな。休め。たまにはコーチの言うことも聞かないとな》
紬。
《親孝行は杏子の課題です。》
まゆ。
《写真たくさん撮ってきてください。あとでデータ解析します(嘘です)》
つばめ。
《温泉、矢所よくなりそう…(?)》
一華。
《正月二日間の不在データ、保存しました。ゆっくりどうぞ》
楓。
《いっぱい甘えてくださいっ》
栞代からは、少し遅れて。
《行ってらっしゃい。お土産話、楽しみにしてる。あと、英国式紅茶道の予約はオレで埋めといていい。どーせおじいちゃん、ぶーたれてるんだろ?》
杏子は、栞代はやっぱりおじいちゃんのこと、よく分かってるなあと感心した。
画面を祖父に見せる。
祖父が「よし」と親指を立てるのを見て、杏子は笑って肩をすくめる。
「みんな、優しいね」
母が言う。
「うん」
画面に並ぶ言葉は、弓を離れてもほどけない弦のように、彼女の心をつなぎ止めている。
台所の片隅で、鍋の中の湯だけがことことと音を立てている。紅茶の香りは二杯目になって少し落ち着き、だしの匂いがまた前へ出る。祖父は新聞のテレビ欄を眺めながら、みかんの皮を器用にむけずに祖母へと渡し、祖母はそれを当たり前の動作で受け取って器用に剥き、杏子はその二人の手元を眺めながら、矢の代わりに湯呑を持つ自分の指を見つめる。
その夜、家は静かだった。賑やかな年越し番組の音は遠ざけて、笑い声の余韻だけが天井の板に薄く残る。
二日と三日は、弓を休む。拓哉コーチが決めた強制休日、ちょうど良い休み。道場はその日、床板のきしみも、的の紙鳴りも、眠りに入る。
矢をつがえない右手は、代わりに母のハンドクリームの匂いを覚え、湯気の向こうで父の笑い皺を数え、祖父の紅茶の温度を測り、祖母の菜箸の節くれの美しさを撫でる。どれも、弓の外にあるけれど、確かに弓に続いている。
外では、年が交替する支度をしている。風の中で、見えない鐘の音が、遠く繊維のように震えていた。
明日になれば、また違う空の下に立つ。矢を番えない日も、矢の軌跡を忘れない。
家という弓座で、杏子はそっと目を閉じた。弦のない音が、胸の内で確かに鳴っていた。




