第281話 年の瀬の宴
杏子が的前から下がろうとしたとき、栞代がすぐに駆け寄った。
「杏子。大分、疲れただろう?」
穏やかな笑顔を見せながらも、杏子は消耗しきったように、こてんと栞代の肩にしなだれかかった。
(……よく、がんばったな)
栞代は、親友のその小さな身体を、労るように強く抱きしめた。
対照的に、拓哉コーチはまるで動じていないかのように見えた。彼はただ、無言で一礼すると、静かにその場を下がっていった。
入れ替わるように、道場の入口から、杏子の祖父が満面の笑みで顔を出す。
「おお、お疲れさん! 豚汁に、おでん、それに甘酒と、ついでにみかんもあるで!」
その一言で、今までの静謐な雰囲気は一気に霧散し、道場は温かい日常の空気で満たされた。こっそりとあかねの後ろに隠れようとした真映の姿を見つけ、祖父はにやりと笑う。ようやく、全員の顔がほころび、笑顔と嬌声が響き渡った。
顧問の滝本先生も交え、賑やかな打ち上げが始まる。冷え切った身体に、熱い豚汁の塩気と旨味がじんわりと染み渡っていく。
「いや〜、しかし、最初は余裕かましてたコーチも、最後は本気になってましたよねぇ」
真映が、早速いつもの調子でつっこみを入れる。
「それは、見ている側の認識の問題です」
すかさず、一華が冷静に解説を始めた。
「コーチは、常に変わっていません。コーチが真剣に見えたのだとしたら、それは杏子部長が、コーチの本気を引き出したと見えるということ。つまり、私たち自身が『コーチが本気にならなければ、杏子部長に負けるかもしれない』と感じたということであり、それは、私たちの杏子部長に対する信頼度が、それほどまでに大きいという証明に他なりません」
その当の杏子部長は、祖母の顔を見つけると、またもや駆け寄っていき、「見てた?」と尋ねている。祖母から「ええ、ずっと見てたわよ。素晴らしかったわ」と褒められると、幼稚園児も顔負けの、くしゃくしゃの笑顔を浮かべた。一華が、そのギャップを怪訝な表情でスマートフォンにメモしていたのは、言うまでもない。
湯気の立つ大きな鍋を囲み、部員たちの賑やかな声が弾ける。皆、思い思いに豚汁を頬張り、好きなおでんの具を選んでいた。冷え切った身体に、温かい出汁の旨味がじんわりと染み渡っていく。その幸福な光景を、杏子は少し離れた場所から、愛おしそうに見つめていた。
ふと、去年の今頃の記憶が、胸の奥で静かによぎる。
病院の、消毒液のかすかな匂い。真っ白なシーツの上で、いつもより少しだけ細く見えた祖父の腕。大丈夫だと笑いながらも、どこか心細そうな祖母の横顔。大事には至らなかったけれど、胸を締め付けられるような不安の中で過ごした、あの冬の日々。
それに比べたら、今年は──。
目の前には、仲間たちの屈託のない笑顔がある。少し離れた場所では、祖父が大きな口を開けておでんの餅巾着を頬張り、元気に笑っている。
なんて、温かくて、幸せな大晦日だろう。
(神様、本当に、ありがとうございます)
杏子は、誰に言うでもなく、胸の内でそっと呟いた。込み上げてくる感謝の気持ちが、じっとしていることを許してくれない。彼女は、ゆっくりと立ち上がると、一人ひとりの仲間のもとへと歩み寄っていった。
そして、言葉の代わりに、そっと、一人ひとりを抱きしめて回る。
「ぶ、部長ぉぉぉ〜!」と大げさに泣き真似をしながら、力いっぱい抱きしめ返してくる真映。
感激のあまりカチコチに固まってしまい、顔を真っ赤にする楓。
「ちょ、杏子、どないしたん?」と呆れながらも、その背中を優しくポンポンと叩いてくれるあかね。
一瞬だけ戸惑い、それでも、ぎこちなく、そっと背中に手を回してくれる紬。
去年ずっと側にいて支えてくれたまゆ。気持ちが通ったのか、少し涙ぐんでる。
少し表情が固いつばめ。
そしていつもいつも、支えてくれる栞代。
その反応は様々で、満面の笑みもあれば、照れ笑いも、苦笑いもあった。
けれど、その根底に流れる気持ちは、確かに一つだった。
この一年、共に笑い、悩み、励まし合いながら、同じ道を歩いてきた仲間への、言葉にならないほどの「ありがとう」。そして、来年もまた、このかけがえのない場所で、一緒に弓を引きたいという、温かく、そして強い願い。
その想いだけは、そこにいる全員が、確かに共有していた。
やがて、杏子の祖父が、色分けした紙を貼った特製の的を持ってきた。
「これは、今日のためにわしが作った『お楽しみ的』じゃ。真ん中に特賞、周りの色は、場所によって賞品が違う。今年の最後を飾る、わしからの皆への感謝の気持ちじゃ。どなたか代表して、これに矢を引いてくれんかのう?」
誰もが譲り合い、結局、その大役はまたしても杏子の出番となった。
皆が見守る中、杏子は疲れ切っていたにも関わらず、のんびりと的前に向かう。しかし、ひとたび構えると、その姿は先ほどと何ら変わらない。外せば盛り下がるという、ある意味、先ほどの競射に並ぶプレッシャーのかかる場面だったが、彼女の矢は、いつも通り、寸分の狂いもなく的の真ん中、「特賞」と書かれた場所を射抜いた。
祖父から、部員全員に封筒が手渡される。
「なにこれ? 『我が家・いつでも宿泊予約券』って?」
真映が不思議そうに声を上げる。
「その名の通りじゃ。いつでも、我が家に泊まりに来てよい、という券じゃ」
「……わざわざ? この券、要らないんじゃ?」
あかねが呟くと、真映がすかさず祖父に尋ねた。
「あの〜、これって、誰かと一緒でもいいですか?」
「もちろん、一人でも、何人でも、いつでも大歓迎じゃ」
その言葉に、真映がほっと胸をなでおろす様を見て、楓は笑いが止まらなかった。
ちなみに、的にさえあたれば、どこにあたっても、この封筒の出番だった。外れたら外れたで、残念賞として配る予定だった。この封筒しか用意していない。だから、封筒には、賞の名目は書いてなかった。
その後は、全員で一年間の感謝を込めて、弓道場の大掃除だ。
「どうも、ありがとうございました!」
「来年も、よろしくお願いします!」
「……しかし、こんなに気合入れて掃除しても、どうせまた明日も来るんだけどなあ」
ワックスがけを終え、ほとほと呆れたというように、真映が声を上げた。
「明日元旦は初射会をするが、二日、三日は、強制休日にする。いいな、みんな、絶対に休めよ」
拓哉コーチがそう宣言するが、真映だけが訝しげな顔をしている。その肩を、あかねがぽんと叩いた。
「真映、正解」
結局、明日も、明後日も、この場所には、いつもの顔ぶれが集まるのだろう。その確信が、道場にいる全員の胸に、温かい光となって灯っていた。




