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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
2年生
280/432

第280話 師弟の射

大晦日の道場に、凍てつくような緊張が走った。

それまでの和やかな空気が嘘のように張り詰め、部員たちは思わず息をのむ。視線の先には、的前に並び立つ二つの影。一人は、この部の絶対的な指導者で全員の信頼を集める樹神拓哉コーチ。もう一人は、そのコーチの元で、今や比類なき射手へと成長した部長の杏子。


プレッシャーは、圧倒的にコーチにあるはずだった。インカレを連覇した元王者といえど、相手は今、最も勢いに乗る現役の怪物。負ければ指導者としての威信に傷がつく。対して杏子には、負けてもともと、という気楽さがある。

そのはずだった。


いつもはどこか余裕を漂わせているコーチの表情から、今は遊びの色が消えていた。その瞳に宿るのは、「勝つ」という単純な闘争心ではない。指導者として、そして一人の弓引きとして、己の全てをこの一射に乗せ、目の前の教え子に示すのだという、静かで、そして確固たる覚悟だった。


対する杏子。数ヶ月前の彼女なら、きっとこの勝負から逃げていただろう。ずっとお世話になっているコーチとの真剣勝負。彼の立場を考え、本気で弓を引くことなど、到底できなかったに違いない。負けた方が、誰も傷つかない。そう思い込んで、自分の心を殻に閉じ込めて。


なのに、どうだ。

今、的を見つめる彼女の横顔には、迷いの欠片もない。そこにあるのは、ただひたすらに、今この瞬間の最高の自分を表現することへの、純粋な渇望だけだった。その姿勢こそ、拓哉コーチが言葉ではなく、その背中で示し続けてきたもの。そして、杏子が数多の葛藤の末に、ようやく辿り着いた場所だった。


技術的には、すでに完成の域にあった杏子に、拓哉コーチが教えたことは、実はほとんどない。僅かな修正点を指摘し、いくつかの気づきを与えただけだ。だが、彼は常に、その技術の先にある「何か」を、杏子に示し続けていた。


「……すごい」

道場の隅で、栞代は二人の姿を見つめながら、感動に打ち震えていた。杏子が、あの臆病だった杏子が、今、あのコーチと対等に渡り合おうとしている。御的初みまとはじめの儀という大役を経験させたのも、全ては杏子が乗り越えるためだったのかもしれない。それを今日、偶然にも自分の目の前で確かめる機会ということなのかもしれない。


「栞代さん」

隣から、一華の静かな声がした。

「コーチの射型は、私が後でいつでも見られるように、高解像度で録画していますから。今は、杏子部長のほうが気になるのでしょう?」

「あ、ああ……そうだな」

「新人戦まで引きずっていた、部長の唯一の弱点。見事に、克服しましたね」

「……一華、やっぱり気づいてたんだな」

「もちろんです。彼女の唯一の弱点は、彼女自身の優しさ……言い換えれば、部長の存在そのものでしたから。それを克服するのは、至難の業だと思っていましたが」

「つぐみとつばめの対戦がきっかけだった。ずっと怒ってたつぐみが自ら示してくれたんだな。思うと、コーチもずっと、あの姿勢を示し続けてくれてたんだな」

「はい。はっきりと言葉にしないところが、コーチらしいですよね。気づくも気づかぬも本人次第。でも、決して見捨てはしない。……日本一のコーチです。尊敬してます」


視線は的前の二人に吸い込まれたまま、栞代と一華は、静かに言葉を交わした。


二人の射手は、互いを意識しているようで、その実、全く眼中になかった。それぞれの意識は、ただひたすらに、己の内側へと深く深く潜っていく。そこには、ただ弓と、的と、自分自身しか存在しない。二つの崇高な魂が、道場の空気を震わせていた。


コーチが立つ。堂々とした、武者系の射型。無駄なく鍛え上げられた筋肉の躍動が、そのまま強靭なエネルギーとなって矢に伝わるのが、見ているだけで分かる。


杏子が立つ。背筋をすっと伸ばし、水面のように静謐な美しさを湛えた型。長い年月をかけて受け継がれてきた、現代弓道の「正統」を体現するその姿に、誰もが目を奪われた。


動のコーチ、静の杏子。

対照的な二人の弦音と、乾いた的中音だけが、冬の道場に繰り返し、繰り返し響き渡る。


何度、矢取りのために部員たちが的との間を往復しただろうか。

時間はその意味を失い、まるで永遠に続く神聖な儀式を、ただ見守っているかのような感覚に、誰もが囚われていた。


その時だった。

その神聖な空間に、ふんわりと、しかし抗いがたいほど魅力的な香りが漂ってきた。

これは……豚汁の匂い? いや、おでんの出汁の香りも混じっている……?


「引き分けで、いいですっ!」


もう何枚交換したのか分らない、予備の的も尽きようかというその時、沈黙を破ったのは、真映の呆れたような、しかし切実な声だった。


「だってもう、全然終わんないし! お腹空いたし! こんな美味しい匂いが漂ってきたら、もう集中なんてできません! 打ち上げに行きましょうよ!」


その場の誰もが、いつまでもこの至高の戦いを見ていたいと思っていた。しかし、真映のその言葉は、同時に、部員全員の偽らざる本音でもあった。

「……確かに。いつ終わるか分からん勝負に付き合うより、今は豚汁やな」

あかねが、大きく頷いて真映に賛同する。


その流れを察したのか、コーチと杏子は顔を見合わせると、どちらからともなく、静かに礼を交わした。勝負は、お預けとなった。



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