第273話 夜明けのプレリュードと竜虎のその後
客間の障子を通して、夜の静寂が柔らかな月の光と共に部屋を満たしている。その静けさの中で、三つの寝息だけが、確かな生命の証として小さく響いていた。部屋の中央に敷かれた杏子の布団を挟んで、右には楓が、左には真映が、まるで忠実な騎士のように寄り添って眠っている。
楓は、憧れの人の温もりを少しでも近くに感じたくて、無意識のうちに杏子の布団へと潜り込み、手は杏子の袖口を探すように触れ、まるで冬の子猫が母猫に寄り添うように、すり寄っていた。一方の真映は、昨夜の祖父との壮絶な弁舌の後、この家で最も安全な場所は杏子の側だと本能的に判断したのだろう、守護神にすがりつくようにして杏子の背中にぴったりくっつき眠りについている。二人に両側から挟まれ、少しだけ窮屈そうにしながらも、杏子の寝顔はとても穏やかだった。二人のその重みは、彼女にとって、幸福そのものの重さだったのかもしれない。
朝。
冬の光が、まだ眠りの膜を破りきれない空気をゆっくりと溶かしていく。
東の空が白み始め、障子が柔らかな光を帯びた頃、真映と楓はほとんど同時に目を覚ました。
「ん……あれ?」
真映が不思議そうに呟く。楓も、隣で息を呑んだ。
枕の位置が微妙にずれて、視界には杏子の姿がなかった。
「杏子部長が……いない……!」
二人が寝ている間に、いつの間にか杏子の姿は布団から消えていた。真映は首を傾げ、楓は一瞬にして不安そうな顔になる。
「え、いない……まさか、納射会に向けてもう宇宙に――」
「ちょっとやめて……」と呟きつつ、二人は顔を見合わせると、足音を忍ばせてそっと部屋を出て、一階へと続く階段を下りた。
階段の途中から、とん、とん、と小気味よくまな板を叩く音と、ふわりと立ち上る味噌汁のいい香りが漂ってくる。リビングを覗くと、エプロン姿の祖母が、朝食の準備をしているところだった。
「あら、二人とも、おはよう」
その優しい声に、二人はほっと胸をなでおろす。
「「おはようございます」」
声を揃えて挨拶をすると、祖母はにこやかに頷いた。
「じゃあ、顔を洗ったら、ご飯にしましょうか。今日は大事な納射会ですものね」
「あ、あの……」
「はい?」
祖母が優しく問い返す。
「おじいちゃんは、どこに……?」
「杏子部長は……?」
昨夜の熱弁に少しだけ怯えている真映と、一刻も早く杏子に会いたい楓。二人の対照的な問いに、祖母は「ふふっ」とふんわり笑った。
「あの二人なら、朝のお散歩に行ってるわ。でも、もうそろそろ帰ってくると思うわよ」
「えっ、毎朝行ってるんですか?」真映が目を丸くする。宇宙会議かな。
「毎朝じゃないのよ。去年、おじいちゃんが一度、体を悪くして倒れてしまってね。それから杏子が心配して、曜日を決めて、一緒に行くようになったの。おじいちゃんは『一人で行く』って言って聞かないんだけど、絶対に一人では行け
ない、本当に困った人なのよ」
そういえば少し聞いたことがある。去年の選抜大会寸前での杏子部長の離脱の原因。今はこんなに元気になったんだ。ほんとに良かった。でも、宇宙人に寿命ってあるのか? 真映の思考はもう違う次元に入っていた。
「困った人」と言いながらも、その声と表情は、深い愛情に満ち溢れていた。この家を流れる時間の、穏やかで優しい秘密を、少しだけ分けてもらったような気がした。
丁度その時だった。玄関の方から、「はははっ」「もう、おじいちゃんまた~」という、明るい笑い声が聞こえてきた。
「あっ、帰ってきたみたいね」
朝の冷たい空気を纏いながらリビングに入ってきた杏子と祖父は、頬を健康的に赤らめていた。その姿は、まるで冬の朝に咲いた、二輪の山茶花のように清々しい。
朝食の席に着くと、テーブルの上には湯気を立てる味噌汁、焼き鮭の香ばしい香り、ほかほかの白米が並んでいた。
食卓を囲んでも、昨夜の嵐のような真映はどこにもいなかった。借りてきた猫のように、静かにもぐもぐとご飯を食べている。その様子に気づいた祖父が、面白そうに声をかけた。
「あれ、今日はえらい静かじゃのう? 真映さん、いつもの元気はどこへ行ったんじゃ?」
返答に困り、視線を泳がせる真映。その姿を見て、杏子が優しく助け舟を出した。
「だって、今日は納射会だもん。久しぶりに人前で弓を引かなくちゃいけないし、やっぱり緊張するよね、真映」
「えっ。杏子部長でも、緊張することってあるんですか?」
今更ながら、真映が驚いたように尋ねる。
「もちろん。すっごく緊張するよお」
杏子は、まるで幼稚園児のような、屈託のない表情で頷いた。その無防備な姿に、真映は正面の祖父に聞こえないくらいの小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……そんなこと言いながら、弓を握ったら宇宙に行くくせに」
隣にいた楓の耳には、その言葉がしっかりと届いていたらしい。彼女は必死に口元を押さえ、ぷるぷると肩を震わせて笑いを堪えていた。
「「ほんとうに、ありがとうございましたっ!」」
玄関で、深々と頭を下げる二人に、祖母は「また、いつでも来てくださいね」と優しく声をかける。
「そうじゃぞ! またいつでもおいで! いっそのこと、みんながもっと沢山泊まれるように、この家も増床するかな!」
祖父は、そう言って豪快に笑った。
(一華を派遣しなければ。部長だけじゃなくて、おじい様の生態も徹底的に分析させてやる……!)
真映は心に誓う。
(いつか、いつか必ず、人生で一度ぐらいは、一人でこの玄関をくぐって、杏子部長と二人で・・・・・きゃっ……!)
楓は、一人、顔を赤くしていた。
三人で学校に向う道中、復活した真映が話し、杏子と楓は交互に笑い、楽しい道中を過ごした。
学校に着くと、待ち構えていたかのように栞代が声をかけてきた。その口元は、もうすでに笑いを堪えきれていない。
「楓、どうだった? 昨夜の『竜虎対決』は」
口元はすでに笑っている。
「あの、最初は真映が圧倒的に優勢だったんですが……」
「うん」
「最後は、おじい様に完全にノックアウトされてました」
それを聞いて、栞代は「ぶはっ」と大きな声で噴き出した。
「杏子部長が助け舟を出してくれなかったら、真映、今日、納射会を欠席するところでした」
楓もまた、楽しそうにその一夜を報告する。
「やっぱ年の功は強かったか」
少し離れた場所では、一華が真映を捕まえ、昨夜の出来事を根掘り葉掘り尋ねている。彼女の「宇宙人研究」の、新たなデータが収集されているようだった。
やがて、拓哉コーチの静かな声が響き渡る。
「全員点呼ー! 川嶋女子に向けて出発するぞー!」
その一言で、部員たちの纏う空気が変わる。ふざけ合い、笑い合っていた和やかな空気は、ピンと張り詰めた勝負の前のそれへと。
バスに乗り込み、一路、川嶋女子校へ。冬の澄んだ光の中、新たな一日が、今、始まろうとしていた。




