第27話 県大会
朝日が昇る頃、光田高校の弓道部員たちは大会会場に到着していた。緊張感の中で、コーチの拓哉が静かにメンバーたちを見守っている。県大会がいよいよ始まる。全国大会への切符を手にするためには、優勝するしかない。その事実が、メンバー全員の心に静かな重圧を与えていた。
朝から行われた男子は、団体戦が4位、個人戦でも、8位と9位と、ベスト10の中に二人入る、堅実な結果を出した。これから全国大会を目指す戦いを始める女子チームに、立派なバトンを渡した。
昼過ぎからは、いよいよ女子団体である。最初に一人4射、5人で合計20射の的中数で決勝トーナメントに進む8校を決める。同じ的中数の場合、各自1射ずつの競射を行って勝敗を決定する。
杏子は静かに弽を握りしめた。その手には汗が滲んでいるが、瞳には揺るぎない決意が宿っていた。「おばあちゃんに金メダルを──」その第一歩だった。その思いが、彼女の中で燃え続けている。正しい姿勢で射つことだけ、ただしい姿勢で射つことだけ。おばあちゃんからの言葉を、おばあちゃんも使ってた弽を、握りしめていた。
最初の予選。順番は鳳城高校との練習試合からの順番を踏襲し、杏子、三納冴子、国広花音、松島沙月、小鳥遊つぐみの順番。光田高校女子弓道部は、一人4射、合計20射中14射だった。前日の練習から比べると的中率は落ちている。試合の緊張があったのだろう。それでも、3位という結果で、決勝トーナメントに進む8位以内にはしっかりと入っていた。杏子とつぐみは相変わらずの安定した射を見せて皆中、冴子、花音、沙月はそれぞれ2中で、この結果、個人戦の出場は、杏子とつぐみの二人に決まった。3射的中で個人戦出場、ということもプレッシャーをかけたようであった。
いよいよ、決勝トーナメントである。
第一試合(準々決勝) 青竹高校戦
最初の相手は青竹高校。同地区の高校だ。今年から大会に参加した新しい高校だが、有り余る資本力で、去年から中学からの有力選手を積極的に集めていた。実は小鳥遊つぐみも声が掛かっていたのだが、拓哉コーチを選び、光田高校を選んだのだ。
光田高校のメンバーは一列に並び、礼をしてから射場に向かう。その姿勢は緊張の中にも誇りが感じられるものだった。
杏子が深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。足踏みを整え、弓を構えると、道場全体が静まり返った。彼女が矢を放つ瞬間を、全員が息を呑んで見守る。放たれた矢は空気を切り裂き、まっすぐに的の中心へと吸い込まれた。
いつもと変わらぬ射型、全く見事だ。
つぐみはその姿を見て感心していた。
あいつ、ほんっとすごいな。予選の時も全然緊張してなかったけど、今は県大会だぞ。全国かかってんのに。
そもそも緊張するってことがないのか。神経通ってんのか? おばあちゃん以外に興味ないのかよっ。まったく。
自分でそう思ったら、自分で思っていることになにかおかしくなってきて、思わず吹き出しそうになった。
まずいまずい。声を出したら失格案件だ。集中集中。
そんな風に考えていたら、緊張していることを忘れてしまった。冴子さん、花音さん、沙月さんもきっと同じだろう。リラックスした、素晴らしい射で繫いできてる。この流れにすっかり乗ってしまった。
なんかめっちゃいい感じじゃん。
その後も、冴子、沙月、花音、つぐみがそれぞれ矢を放ち、着実に的を捉えていく。練習通りの結果を出すことに集中し、チーム全体で20射中16射を的中させた。青竹高校をしっかり抑え、光田高校は見事に勝利を収めた。
試合後、メンバーたちは控室で円陣を組み、小さく拳を突き合わせた。「まだ始まったばかり。気を引き締めていこう。」花音の言葉に、全員が頷く。つぐみが呟く。
「どーでもいーけど、杏子、ちょっとは緊張しろよ。」
花音が続く。
「杏子が緊張したら、私たち、たぶん固まって動けないかもね。」
全員が笑うが、杏子にはいまいち、ピンときていないようだった。
準決勝 川嶋女子校戦
準決勝の相手は川嶋女子校。以前は、同地区で雌雄を決していた相手だ。過去には何度も全国大会出場経験があり、優勝経験もある強豪校だ。試合が始まる頃には風が強まり、矢が流される選手も増えていた。自然の中で行う弓道特有の難しさが、この試合では一層際立っていた。
杏子は風を感じていながら、おばあちゃんの言葉を思い出していた。「正しい姿勢で射つだけ」「あたるかどうかはただ結果なだけ」。風の影響は確かにあるだろう。でも、それはわたしが左右できることではない。そう思い、一瞬目を閉じ、呼吸を整える。そして、一本目の矢を静かに放つ。矢は風の影響をものともせず、見事に的の中心を射抜いた。周囲から感嘆の声が上がる。彼女はその後の動作も、まるでビデオを見ているように、練習の時から、一寸も変わらぬ所作を見せた。その冷静さは、他のメンバーにも伝播し、冴子が落ち着いた動作で矢を放っていった。
しかし、実際の風の影響よりも、心理的な動揺が大きかったのか、花音が外してしまう。
彼女の肩が微かに震えるのを見て、沙月が心の中で声をかけた。「花音部長、大丈夫、次を決めればいい。杏子を見て。全く動じてないよ」聞こえないはずのその言葉に、花音は頷いたように見えた。
風のは、つぐみにも影響が出てしまう。第一射を外してしまったのだ。つぐみが外すところを、試合で始めて見たメンバーは動揺した。つぐみは悔しそうに顔を歪める。
風は平等に吹いているので、川嶋女子も苦労していた。エースの日比野希は落ち着いて決めていたが、他はかなた苦労しているようだ。
そして、杏子の射。相変わらず落ち着いて冷静に射る。見事に的中させる。つぐみが外す、始めての嫌な流れを見事に断ち切る。冴子は、ほんとに杏子は偉大だ。きっと何も考えていないんだろう。いいことだ。そう思いつつ、その流れを後ろに繋げようとする。
花音も沙月も「ただ結果なだけ」に、射型を乱されてはいけないんだ、と、改めて落ち着きを取り戻す。
経験豊富なつぐみは、最初の乱れを見事に修正して立ち直る
試合終了の瞬間、光田高校はわずか1射差で勝利していた。控室に戻ったメンバーたちは、互いに肩を叩き合いながら「次も絶対勝とう!」と気持ちを新たにした。
試合の時の拓哉コーチの緊張も凄かった。両校接戦の展開に、普段の冷静さを失い、膝の上で握りしめた手が、微かに震えていた。時折、大きく息を吐き出しては、また息を止める。何度も座り直す。
応援席から見ていた栞代は、まあ、まだおじいちゃんよりはマシだな、と思った。
確かに。先日の地区予選の時、祖父はまさに気絶寸前って感じだったもんな。今回に比べたら、まだまだ余裕のある戦いだったのに。
それを思えば、拓哉コーチの今の様子など、まだまだ可愛いってところか。
決勝戦 海浜中央高校戦
ついに決勝戦が始まる。相手は今大会の優勝候補、海浜中央高校だ。その名は全国的にも知られ、メンバー全員が安定した技術と冷静な精神力を持つ強豪チームである。風も収まったようだ。
光田高校は緊張の中でも自分たちのペースを守ろうとしていた。杏子が大前(1番目)として射場に立つと、場内が一瞬静まり返る。その姿には、まるで時間が止まったかのような静寂があった。
一本目の矢が放たれる。音もなく空を切り、的の中心に吸い込まれる。
観客席で見ている栞代、紬、あかね、は感嘆していた。短い瞬間、手を叩く。まゆは、もう感動しっぱなしだった。まゆにとって憬れの杏子。あんな風に弓を引けたらどれほどいいだろう。
決勝戦ということもあり、全ての参加校が見ていたが、その中で、もっとも注目を集めていたのは、杏子だった。派手さとは全く違う、落ち着いた美しさ。見るものを虜にせずには居られなかった。
そして、闘志を全身から滲ませるつぐみ。いいコンビだな。オレも必ずあそこに参加するぞ。栞代は力強く誓った。相変わらず紬の表情は読めない。あかねは単純に応援に夢中になっているようだ。
結局、杏子は、二本目、三本目、四本目。すべてが正鵠を捉え、完璧な結果を見せた。
冴子、花音、沙月は、準決勝の時の風が止んだことによって、気持ちにも余裕が産まれていた。実力を丁寧に発揮していた。
つぐみは、自信に満ちた表情で弓を構えた。準決勝でのミスをひきずるほどヤワじゃない、修正能力にも自信がある。杏子、よく見ておけよ。
結果は同数。もう一巡、射ることになった。
滝本先生も、拓哉コーチも、寿命が縮む思いだった。生徒たちは全力で弓道に取り組んでくれた。もちろん、コーチも顧問も、持てる力の全てを注ぎ込んだ。自分が射る訳ではないことが、さらに緊張を強めていた。
観客席に居る、杏子の祖父と祖母。祖父は杏子が射つたびに目を白黒させるは、上下にさせるわで、一本一本に気持ちを込めていた。
対照的に祖母の方は、落ち着いて杏子の姿を見ていた。杏子の姿を見ることができる。そのことに十二分に幸せを感じているようだった。杏子の完璧な射型を見て、どれほどの努力を重ねてきたんだろうと、今更ながら感動していた。
あたるかどうかはただ結果なだけ。今日は杏子の大好きな、ちらし寿司と茶碗蒸しで迎える準備はできていた。ふと、これって、おじいちゃんの好物と同じだな、と思い出しては微笑んだ。
競射が始まる。
見ている全ての人が緊張して力が入る中、杏子はおばあちゃんの言葉だけを思い出していた。「あたるかどうかはただの結果なだけ。」おばあちゃんの弽もある。胸あてもある。わたしはいつもの通り、正しい姿勢で射つことだけだから。
冴子が的中し、花音が外し、沙月が実に惜しい射ではあったか、外してしまった。海浜中央高もこれを外せば勝負が決まる、という射を、エースの美咲静が見事に決めた。
そして、最後の一射は、つぐみに託された。楽勝だぜ。つぐみは思った。外しても同数で、もう一周すればいいだけ。だが、そんなことにはさせない。ここで決めてこそのわたしだ。今日は一射外しているしな。いい場面だぜ。痺れるな~~。
これ以上ないほどの楽しさを感じたつぐみの矢は見事に的中した。
この瞬間、光田高校の優勝、全国大会出場が決まった。
「優勝は──光田高校!」
その瞬間、応援席に居る光田高校のメンバーは歓喜の声をあげた。
当然のことではあるが、最後まで礼をを尽くし、決して喜んだ表情を見せないメンバーに、コーチと顧問は固く握手をし、改めて、自分たちの教えたことは間違っていなかったと思った。
控室に戻り、互いの健闘を讃えた。同じ思いで弓道に向かっている仲間だ。目の前で喜ぶ必要はない。杏子の言葉を借りれば、たまたま勝っただけだから。
しばらく休憩した後、個人戦が始まる。




