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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
2年生
269/433

第269話 待ち伏せのプレジデント

冬の夕暮れは、空気の密度そのものが増したように感じられる。道場の窓から見える空は薄紫色に染まり、吐く息は白い糸のようにふわりと解けては消えていく。


道場の隅で、栞代は最後の力を振り絞るように、体幹を鍛えるトレーニングに没頭していた。床に滲む汗、ぜいぜいと上下する肩、荒い呼吸だけが、彼女の存在を証明している。弓に触れることのできないもどかしさと、有り余るエネルギーの全てを、彼女は自分の肉体をいじめることで昇華させていた。やがて、燃え尽きたようにぴたりと動きを止めると、彼女は誰にともなく短く挨拶をし、タオルで汗を拭いながら、一人、先に道場を後にしていく。


その広い背中を、杏子は少しだけ切ない気持ちで見送った。

今日は、栞代の味方であるお祖母様が家に帰ってこられる日だという。栞代は、自分の家のことをを多く語らない。けれど、彼女が杏子の家に半分住むような形で身を寄せているのは、自宅に彼女の安らげる居場所がないからだということを、杏子は感じていた。栞代に無関心な母親と、娘の身を案じながらも、普段は施設で暮らしているお祖母様。その間で、栞代はずっと一人で戦ってきたのだ。


杏子の祖父が、栞代に対して過剰なまでに「もっとウチに来いよ」と誘うのは、ただ単に賑やかなのが好きだからというだけではない。栞代のその孤独な戦いを、肌で感じ取っているからだ。そして、そこには、つぐみへの想いも重なっている。


つぐみもまた、栞代同様、家庭の事情を抱えていた。去年、彼女が杏子の家に泊まることも多かったのは、そのためだ。祖父は今でも、時々悔やんだように口にする。「あの時、本気でつぐみちゃんを引き取ることも考えるべきだった」と。実際には不可能なことだと分かっていながらも、もっと力になってやれたのではないかという後悔が、心には棘のように刺さっている。だからこそ、その想いの全てを、今、目の前にいる栞代へと注いでいるのだ。杏子の家は、いつしか、傷ついた鳥たちが羽を休めるための、大きな止まり木になっているようだった。


「じゃあ、この辺にしとこっか。明日はみんな、遅れないでね。」


杏子の柔らかな声が道場に響き、練習は解散となった。あくまで自主練のため、拓哉コーチは道場の片隅で静かに見守るだけ。求める声が上がるまで、静かにその輪の外から部員たちを見守っている。彼のスタンスは、徹底した自主性の尊重だ。もちろん、危険があったり、練習が行き詰まったりすれば、的確な助言をくれる。しかし、杏子を中心に、一華がデータを、まゆが精神的な支えを担う今の光田高校弓道部には、彼の出番はほとんどなかった。


「いやー、栞代さんが近くにいない杏子部長、なんだかレアですねぇ!」

着替えを終えた杏子の前に、真映がひょっこりと現れ、満面の笑みで茶々を入れる。


「それじゃ、わたし、一旦家に帰って準備して、部長のところに行きますね!」

「……あ、真映。ちょっと紬とソフィアのところに行くから、少し遅めに来てね。」


「えっ、ソフィアさんのところに行くんですか。あー、それ行きたいけど……時間的に無理か。わかりました、ゆっくりしてきてください。」


じゃあまた後で、と手を振って駆け去っていく真映の瞳が、一瞬、猫のようにきらりと光ったような気がしたが、杏子は特に気に留めなかった。


着替えを終えると、一華がすかさず今日の練習データを差し出す。明日の納射会に向け、特に問題はなし。部員全員で道場の最終チェックと清掃を済ませ、外に出ると、空はもう深い藍色に染まり始めていた。


「続けて行ったら、エリックさん、驚くかなあ?」

杏子が隣を歩く紬にぽつりとつぶやく。


「ああ見えて、エリックさんも結構寂しがり屋ですから。めちゃめちゃ喜ぶと思う」

紬は、付け加えた。

「あんまり頻繁に行き過ぎると、かえって期待させちゃうかもしれませんけど。そういうところ、部長のおじいちゃんに似てますね」

紬が肩をすくめる。

いつもより、随分と言葉が多い。頑張って話そうとしていることが伝わってくる。


杏子は笑みを浮かべ、「そんなに長居しないし。寄るだけで喜んでくれるなら、毎日でもいいけどね」と答える。


自分が祖父母と暮らしているからこそ、杏子にはその気持ちがよく分かった。特に祖父には困らされることも多いけれど、やはりいつも気がかりなのだ。


去年の両親との旅行中、自分の祖父母のことを栞代やつぐみが気にかけてくれたとき、どれほど安心できたことか。。今度は自分も同じことをしたい。ソフィアもきっと、同じ気持ちだろう。みんなが、少しずつ、できることをすればいい。


エリック宅のチャイムを鳴らすと、昨日と同じように、満面の笑顔のエリックさんが出迎えてくれた。そして彼の足元から、白い毛玉のような塊が、喜びの唸り声をあげながら飛び出してくる。ピルッカだ。尻尾を風車のように回しながら杏子の足元に飛びつく。


「杏子の弓を見ていないのに、ピルッカ、すっかり杏子のファンだね」

ピルッカにまとわりつかれながら、杏子の隣で紬が呟く。

「いや、みんなで見学に来てた時、外から見てたのかな?」

杏子の弓を見たら、誰でも虜になる。


ソファに腰掛けると、暖炉から漂う薪の香りが鼻腔をくすぐる。いつもより口数の多い紬は、杏子と二人きりだからか、あるいは勝手知ったるソフィアの家だからか、随分とリラックスしているように見えた。


昨日よりは早めに切り上げるつもりだった。エリックさんも事情は分かっているようで、「長くいるより、短くても沢山顔を見せてくれる方が嬉しい」と言ってくれる。長い滞在より、頻繁な訪問を望むのは、寂しがり屋な性分ゆえだろう。


エリックが淹れてくれた深煎りのコーヒーは、湯気の向こうで琥珀色に輝いていた。一口含むと、ほのかな苦味と甘味が舌の奥で溶け合い、身体の芯まで温まる。美味しいコーヒーだけをご馳走になり、リーサさんにも挨拶をして、そろそろお暇しようとした。


ピルッカだけはそれが不満らしく、足元にまとわりついたかと思うと、拗ねたように走り去り、また戻ってきてクンクンと鼻を鳴らす。紬と二人でその柔らかい毛を存分に撫でてやると、ようやく安心したのか、名残惜しそうに玄関で見送ってくれた。


ちょうどそのとき、杏子のスマホが震えた。

祖父からの短いメッセージ――「着いたぞ」。


「じゃあ、また来ますね」

二人はエリックさんたちに手を振って家を出た。夜の冷気が、火照った頬に心地よい。角を曲がると、見慣れた祖父の車がハザードランプを点滅させて停まっていた。


「おじいちゃん、お待たせ」

後部座席のドアを開けた、その瞬間だった。

暗いはずの車内に、スマートフォンの明かりに照らされた顔が、ぬっと浮かび上がった。


そこに座っていたのは、満面の笑顔を浮かべた真映だった。

そして、静かな夜の住宅街に、彼女の元気な声が響き渡った。


「部長ーっ! 紬さんっっ! お疲れ様です!

「お勤め、ご苦労様でしたっ!」


真映だった。満面の笑みを咲かせ、両手を大きく振る。その勢いに、車内の空気まで温度が上がったように感じる。


「……お勤めって・・・・。」


杏子が小首を傾げると、祖父がのんびりした声を出す。

「いや、玄関でたら、前で待ってたんだ、寒そうに。チャイム鳴らせばいいのに」


「寒いなんてもんじゃなかったですよ!」

真映は得意げに胸を張り、その横顔は期待と喜びで赤く染まっていた。


家の前で待ってるなんて、口ではズウズウしいけど、実は繊細なところもある真映らしい。でも、風邪ひくから、そこはチャイム鳴らさないと。


車はゆっくりと走り出す。フロントガラス越しに見える街は、正月前の温かな明かりであちこちが灯っていた。車内には祖父の低い笑い声と、真映の途切れないおしゃべりが交互に響く。


夜はまだまだこれからだ。

杏子は、車窓に映る真映の笑顔を横目に、少しだけ口元を緩めた。


「……で、なんでチャイム鳴らさなかったの?」

杏子が問うと、真映は「ふふーん」と鼻を鳴らし、妙に得意そうに言った。


「えー、それはですね……ふふ、今言ったらつまんないじゃないですか。部長の家に着いてからのお楽しみ、ってやつですよ。」


その言葉に、紬は首をかしげ、杏子は小さくため息をつく。祖父は運転席で「若いのは元気じゃのう」と笑っていた。

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