第268話 納射会前日練習 観測者のエレジー
午前の練習を終え、張り詰めていた道場の空気が、心地よい疲労感と共にふわりと解けた。部室に戻った部員たちがそれぞれの弁当箱を広げると、だし巻き卵の甘い香りや、唐揚げの香ばしい匂いが入り混じり、途端に空間は高校生らしい活気で満たされる。
紬は杏子の祖母の手作りのお弁当にかなり感動している様子だった。
「ふぅ~っ。今日の練習は気合が入りましたねぇ!」
大きな声と共に、自分の食事をあっという間に平らげた真映が、二年生の輪の中に、しかも杏子の真横に当然のように割り込んできた。
「練習には、いつも気合が必要なんだよ、真映」
早速、あかねがからりと笑ってツッコミを入れる。
「そうだぞ。試合というのは、こういう通常練習の、地道な積み重ねの結果でしかないんだからな」
栞代も、箸を置きながら静かに諭した。
「わ、分かってますよぉ! それより、今日は楽しみですねぇ。栞代先輩、よろしくお願いしますね!」
くるりと栞代に向き直り、にぱっと笑う真映。その言葉に、栞代は肩をすくめた。
「いや、真映。オレは今日は自宅に帰るんだ。お前ももう年末なんだし、自分の家でゆっくりしたらどうだ?」
「えっ、そうなんですか!?」
真映は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、すぐに復活する。
「いやいや、それなら余計にお泊まりに行きますよ! だって、杏子部長がお一人だと、寂しがるじゃないですか!」
杏子はいつも通り、何も言わずにこにこと微笑んでいる。その反応に、栞代は深いため息をついた。
「ふぅ……。まあ、お前も言い出したら聞かないからな。一度決めたら絶対に意見を変えない選手権でも、今度杏子としてみろよ」
「えっ? 杏子部長って、いつもみんなに流されてるだけなんだと思ってました」
真映が驚きの声を上げるが、杏子の静かな頑固さをよく知る二年生たちは、ただにやにやとその会話を聞いていた。杏子は、穏やかな海だ。普段はどんな波も受け入れてくれるが、その奥底には、どんな嵐にも動じない、巨大で静かな海流が流れているのだ。
栞代は、腕を組むと、意を決したように言った。
「ところで……杏子と真映を二人きりにして夜を越させるのは、我が部の安全管理上の危機だ。よろしくない。よし。おーい、楓!」
「ちょっと! 何ですか、その危険物みたいな扱いは!」
抗議する真映を片手で制し、栞代は一年生の輪の中にいた楓を手招きする。呼ばれた楓は、きょとんとした顔で立ち上がった。
「はい、何ですか?」
「急で悪いんだが、もし良かったら、今日、杏子の家に泊まりに行かないか?」
「えっ」
杏子Loveな楓にとって、それはあまりにも突然で、甘美な響きを持つ提案だった。彼女の内部で、喜びのボルテージが瞬時に振り切れる。心臓が早鐘を打ち、頬がカッと熱くなるのが自分でも分かった。
「だ、大丈夫か? 年末だし、急でご家族は……」
「は、はひっ! だ、だ、大丈夫ですっ!」
興奮のあまり、もう舌が言うことを聞いてくれない。楓は、ただこくこくと、ちぎれんばかりに首を縦に振った。
「真映一人だと、エネルギー量が台風みたいで嵐になるからな。楓、悪いが防波堤になってやってくれ」
「は、はひっ! ぼ、ぼーはてー、ですねっ! お任せください!」
その微笑ましいやり取りを見ていたあかねが、栞代にそっと囁く。
「冷静さで言ったら、一華もいるぞ?」
「いや、一華と真映の組み合わせはアカン」
栞代は、きっぱりと首を横に振った。
「一華は、杏子の生態を観察・分析しようとするだろう。そうなったら、さすがの杏子も気が休まらない」
その時だった。栞代は、一年生の席から、じっとこちらを見つめる一華の視線に気づいた。それは、静かだが、どこか取り残された子猫のような、拗ねた光を宿していた。まずい、と思った栞代は、慌ててフォローを入れる。
「ま、まあ、一華は今度、つばめと一緒に泊まりに行きなよ!」
その言葉に、心なしか一華の纏う空気が和らいだように見えて、栞代はそっと胸をなでおろした。
「なんか、一華の目、恐いよ」
栞代がぽつりと漏らした言葉を聞いて、杏子はくすくすと笑った。その笑みは、まるで全てお見通しだと言っているかのようだった。
午後の練習は、自主練習だ。道場には、昼の賑やかさが嘘のような、静謐な空気が戻ってくる。西に傾いた陽光が、床に長い光の帯を作り、部員たちの射の動作を幻想的に照らし出していた。
しかし、楓の射は、明らかにいつもと違っていた。
憧れの杏子の家に泊まれる。その喜びが、彼女の心を浮き足立たせ、集中力を奪っていた。射は上ずり、狙いは定まらず、呼吸は浅い。喜びというポジティブな感情でさえ、心を乱し、道を狂わせる「魔」となり得る。弓道とは、そういう武道だ。
「楓、どうしたの? いつもと違うよ」
不意に、背後から杏子の優しい声がした。
「は、はひっ!」
振り返った楓の顔は、喜びと焦りで真っ赤になっていた。杏子はそんな後輩の姿に微笑みかけると、ただ一言だけ、言った。
「落ち着いて、ね」
その言葉は、まるで魔法だった。杏子の穏やかな声の響きが、楓の荒れ狂う心の波を、すうっと凪がせていく。
その一連の光景を、一華は道場の隅から、冷徹なまでの観察眼で見つめていた。
──ほら、見たことか。それが、普通の人間の反応なんですよ、部長。
憧れの人と特別な時間を過ごせる。その喜びは、当然、心を動揺させる。パフォーマンスに影響が出る。枫の的中率が今、急激に下がっているのは、計算通りの正しいデータだ。心配はしていない。これはアドレナリンによる一時的な混乱に過ぎない。明日の納射会までには、彼女は必ず元の状態に戻るだろう。
問題は、あなただ。
あなただけが、いつだってデータの外側にいる。
一華の視線が、再び杏子へと吸い寄せられる。
なぜ、あなたは、楓を落ち着かせることができる側の人間なのだ。なぜ、あなた自身は、決して揺らがない。その不動の心は、一体、何で出来ている?
もう、なにもかもが、分からない。
そして、分からないことが、たまらなく、腹立たしい。
ますます、あなたが、だいっきらいだ。
「一華、眼がこわいよ」




