第267話 納射会前日練習
納射会を翌日に控えた朝の空気は、冬特有の透明感を持ちながら、どこか引き締まって感じられた。アスファルトを踏むみんなの足音、交わされる挨拶、白い息の群れ。そのすべてが、年の瀬という大きな節目と、間近に迫った小さな決戦を前にして、いつもより少しだけ輪郭をはっきりとさせているようだ。
校門へと続く坂道を、杏子、栞代、そして紬の三人が並んで歩いていく。昨夜、同じ屋根の下で過ごした親密な時間の余韻が、三人の間に穏やかな空気の層を作っていた。その特別な一体感を、目ざとく見つけた人物がいた。
「あーっ! 見つけた! 栞代先輩に紬さーん! そして杏子部長っ!」
坂の下から、弾丸のような勢いで駆け上がってきたのは真映だった。その声は、朝の静寂を打ち破るファンファーレのように甲高い。
「今日は栞代先輩だけじゃなくて、紬さんもご一緒なんですね? それは偶然ですか? 待ち合わせですか? そ、そ、それともぉ……?」
疑いの眼差しを三人に向け、探偵のように目を光らせる真映に、栞代はやれやれと首を振った。
「お前、朝から元気全開だな。昨日、紬と一緒に杏子のところに泊まったんだよ」
その答えを聞いた瞬間、真映の大きな瞳が、これ以上ないというほどに見開かれた。
「えーーーっ! いいないいないいないいないいないい! 杏子部長宅のお泊まりは、栞代先輩の専売特許かと思ってました!」
そして、次の瞬間にはくるりと杏子に向き直り、宣言する。
「紬さんが行っていいのなら、わたしが行ってもいいはずです! よし、杏子部長、今日わたし、泊まりに行きます!」
「おい真映、お前、杏子のこと、倒すべき敵だって言ってなかったか?」
栞代が笑いを堪えながら指摘する。
「い、い、いや、当然敵ですよ。杏子部長はわたしのライバルに相応しい実力者だし。でも、その・・・・」
真映は少し困りつつも、
「そ、そう、偵察ですよ、偵察、弱点を見つけるんです。仁義無き戦いとはそういうもんです。」
栞代はもう笑いを堪えきれず
「泊まりの準備も何もしてきてないだろうが」
「はい! なので、練習が終わったら一度家に帰って準備して、部長のお家に直行します!」
きらきらした瞳で言い切る後輩に、栞代は深いため息をついた。
「ふぅ……。まあ、その話題は昼にしよう。まず練習だ。真映も、明日はちゃんと選手として出場するんだからな」
「あっ、そうでした! どーしましょー、栞代先輩!」
「日頃の練習の成果が問われるのが弓道だ」
「じゃあ、大丈夫ですねっ!」
一点の曇りもなくそう言ってのける真映に、栞代はもう呆れるのを通り越して、感心すら覚えていた。
「……お前のその性格、素晴らしいよ」
道場に足を踏み入れると、ひやりとした空気と、松脂と古い木の匂いが身を包んだ。明日に合同納射会を控えているからといって、練習内容が特別に変わることはない。いつも通りの準備運動、基礎的な体力トレーニング、そして弓を持っての巻藁、的前。光田高校の強さの源泉は、この揺るぎない「日常」の積み重ねにある。
ただ一人、栞代だけはその輪から外れていた。コーチから下された「弓禁止令」により、彼女は裏方に徹するしかない。しかし、部員たちのサポートは、もはや彼女が手を出すまでもなく、後輩たちが完璧にこなしている。やることもなく、手持ち無沙汰になった栞代は、その有り余るエネルギーと、弓に触れられないもどかしさを全てぶつけるかのように、道場の隅でハードな体力トレーニングに没頭していた。スクワット、体幹トレーニング。流れる汗が、焦燥に駆られる心を少しずつ浄化していくようだった。筋肉は裏切らない。その言葉だけを信じて、彼女はただ黙々と体をいじめた。
練習が終わり、後片付けも済んだ頃、拓哉コーチが部員たちを前に、明日の予定を最終確認した。
「明日は、いつも通りの時間に学校集合だ。遅れるなよ」
そして、本題である納射会の出場メンバーが、彼の落ち着いた声で発表された。
「試合形式の五人立ちは、あかね、つばめ、真映、楓、紬。以上の五名で行う。順番もこの通り」
名前を呼ばれた者たちの間に、緊張と喜びが走る。スランプに苦しむつばめは、唇をきつく結び、その選出の意味を噛み締めているようだった。
「そして、」とコーチは続ける。「試合形式とは別に、演舞を行う。二人一組で、四本の矢を引いてもらう」
誰が、と部員たちが固唾を呑んで見守る中、コーチは静かに言った。
「演舞は、杏子と、まゆ。お前たち二人だ」
その名前に、道場の空気が一瞬止まる。
まゆが、驚きに目を見開いている。え、わたしが? なんで? その小さな口が、声にならない言葉を紡いでいた。
「演舞は、的中や実績は関係ない。この部の中で、今、最も射型が美しいと俺が判断した者を選んだ」
コーチのその言葉が、まゆの心に深く、深く突き刺さった。椅子の上で、ただひたすらに杏子の射に憧れ、追い求め、磨き上げてきた自分の射。身体的なハンデを乗り越え、コーチの指導、杏子の支え、そして、誰にも見えない場所で続けてきた努力。その全てが、今、肯定されたのだ。世界の音が遠のき、視界がじわりと滲む。隣に立つ親友のあかねが、自分のことのように喜んで、そっと肩を抱いてくれているのを感じた。
しかも、その杏子と二人で。
その光景を、一華はスマートフォンの画面越しに見ていた。午前中の練習結果をまとめたデータは、興味深い傾向を示している。納射会という、試合に近い状況を前にして、ほとんどの部員の的中率が、昨日よりも微妙に上昇しているのだ。やはり、「気持ち」という不確定要素は、パフォーマンスに大きく影響する。
ただ、一人を除いては。
一華の視線は、まゆを祝福している杏子へと吸い寄せられる。この人は、なぜ、変わらない? 的中率は、常に最高値のまま、微動だにしない。意気込みも、動揺も、プレッシャーも、まるで存在しないかのように。
お昼のお弁当には毎回あんなに感動して、子どものように目を輝かせるくせに、どうして弓を握った時には、一切の感情の揺らぎを見せないのか。それは、あまりにも理不尽ではないか。
この宇宙人を、絶対に分析してやる。
わたしの知性が、わたしの分析が、この人にだけは通用しないなんて。そんな屈辱、耐えられない。
「……ちょっと、一華。眼が、恐いよ」
杏子部長の、少し困ったような声。それで、はたと我に返った。自分の視線が、獲物を狙う肉食獣のように、あるいは未知の生命体を解剖しようとする科学者のように、冷たく、執拗なものになっていたことに気づく。
違う。違うんだ。
わたしは、あなたを解き明かしたいだけ。
でも、その想いは、いつだって、正反対の言葉になって胸の内で叫び出すのだ。
もう、絶対に、絶対に、だいっきらい。




