第266話 冬の夜の温もり 紬編
その柔らかな笑いが、杏子と、そして紬にも伝染していく。
「わたし……」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
「感情を、どうやって出せばいいのかな。ずっと人が怖くて」
それは、彼女が最近、自分自身への課題としていることだった。感情を表現すること。人と関わること。
嬉しい時に、口角をどれくらい上げれば「笑顔」になるのか。悲しい時に、どう眉をひそめれば、その気持ちが伝わるのか。頭で考えてしまうと、表情筋はぎこちなく強張り、出てくる声は平板になる。無表情でいることは、ある意味で「楽」だった。けれど、それでは伝わらない想いがあることを、彼女は全国大会決勝の舞台で痛いほど知ったのだ。
「笑うって、なんだかすごく、難しい」
それは、凍てついた湖の氷を、自らの手で少しずつ砕いていくような、途方もない作業に思えた。
その時、杏子のスマートフォンが約束の着信音を鳴らした。画面には『Sofia』の文字。通話ボタンを押すと、待ってましたとばかりに、金髪碧眼の少女の顔が画面いっぱいに映し出された。背景には、いかにも日本の旅館らしい障子が見える。
『Kyokoー! Tumugiー! Kayoー! "Katso, tää!"(見て、これ)』
アンナは興奮した様子で、京都で食べたという抹茶パフェの写真を画面いっぱいに見せつける。その無邪気さに、部屋の空気がふわりと軽くなった。
『Kyokoーーー!』
鼓膜が破れそうなほど元気な声。アンナは興奮で頬を上気させ、きらきらと輝く青い瞳で、画面の向こうの杏子たちを見つめている。
『アンナ、落ち着いて。Kyokoたちが驚くでしょう』
画面の横から、呆れたような、それでいて愛情のこもったソフィアの声がする。しかし、アンナの興奮は収まらない。
『聞いて、Kyoko! わたし、きょう! “Houkago Tea Time”に、なりました!』
少しだけ間違った、しかし熱意だけは十二分に伝わる日本語に、杏子は思わず「ふふっ」と笑みをこぼす。
『Katso, katso! Katso nyt tätä!(見て見て! これ!)』
アンナはそう言うと、スマートフォンのインカメラを切り替え、保存された写真を得意げに見せ始めた。最初に映し出されたのは、古い木造校舎の廊下で、彼女がぎこちないポーズを決めている写真だった。
『ここはね、”Sakuragaoka High School”! 本当は、トヨサト小学校!』
『豊郷ね』とソフィアが小さく訂正する。
『うん、トヨサト! あのね、階段のところに、カメさん、いたの! アズニャンが、なでなでしたカメさん! わたしも、なでなでした!』
アンナは、次から次へと写真を見せてくる。音楽準備室の黒板に描かれたチョークのイラスト、キャラクターたちが使っていたのと同じデザインのティーカップ、そして、楽器店の前で満面の笑みを浮かべるアンナ自身の姿。そのどれもが、彼女の純粋な喜びで満ち溢れていた。
「すごい熱量だな……」
栞代が、そのあまりの勢いに圧倒されたように呟く。
「ソフィアも訳するの大変だ」
紬もアニメオタクなので、興奮し画面をじっと見つめていた。
『そして! これ!』
アンナが最後に見せてきたのは、ショートケーキの写真だった。
『これはね、アズニャンが食べてたケーキと、おんなじ! “Kyo-ani”の近くのケーキ屋さん! おいしかった!』
『アズニャンっていうのは、登場人物の一人』
ソフィアと紬が同時に補足する。
アンナは、自分の大好きな世界を体験できたことが嬉しくてたまらないのだろう。その熱は、画面を通り越し、この杏子の家の客間にまで伝わってくるようだった。片言の日本語と、フィンランド語の奔流。その一つ一つを、杏子は目を細め、何度も優しく頷きながら聞いていた。
『Kyoko!』
ひとしきり報告を終えて満足したのか、アンナは再び自分の顔を画面に映し出すと、真剣な顔で言った。
『つぎは、Kyokoも、いっしょに、行く! 約束!』
その真っ直ぐな瞳に、杏子は微笑みで応えた。
「うん、約束ね。楽しみにしてるよ、アンナ」
杏子の言葉に、アンナは世界で一番幸せだと言わんばかりの笑顔を見せた。かわいらしい友人が残した、無邪気で温かな熱の余韻が、部屋の空気を優しく満たしているかのようだった。
アンナは、杏子と「約束」ができたことに満足しきった顔で、『"Moikka moi!"(じゃあね)』と手を振って画面から下がっていった。入れ替わるように、姉のソフィアが呆れと愛情の入り混じった微笑みを浮かべて画面に近づく。
そしてソフィアに代わり、杏子は明後日の納射会のこと、そして今日、ソフィアの家を訪れたことを報告した。エリックさんもリーサさんも、そしてピルッカも、普段と変わらず元気だったと伝えると、ソフィアは画面の向こうで、心から安堵したように微笑んだ。
「ごめんね、Kyoko、Kayo、Tsumigi。アンナが騒がしくて」
あらためて、申し訳なさそうなソフィアの声が届く。
「ううん、すごく楽しかったよ」と杏子が応えようとした、その時だった。
それまで静かに二人の会話を聞いていた紬が、すっと息を吸い、いつもよりほんの少しだけ高く、そして弾むような声で口を開いた。
「Sofia」
その声に、杏子と栞代は驚いて顔を見合わせる。
「アンナが見ていたケーキ。あれは出町桝形商店街がモデル。つまり、『たまこまーけっと』の聖地でもあるよね」
冷静な口調で紡がれる言葉は、しかし、内容は完全に熱狂的なファンのそれだった。画面の向こうのソフィアの瞳も、同じ種類の輝きを宿す。
『さすが、紬。よく気づいたわね。そうなの、せっかくだからハシゴしたっ』
ハシゴって・・・・・。日本語の力、めちゃくちゃついてるな。杏子と栞代は感心しながら耳をそばだてた。
「だろうと思った。京アニの描く食べ物は、その質感からカロリーまで伝わってくるよね。背景美術の圧倒的なリアリティと、キャラクターのデフォルメの曲線美。あの融合こそが……」
いつになく饒舌に、専門的な分析を始める紬。瞳が饒舌に、隠しきれない楽しさを物語っていた。まるで、静かな湖の底で眠っていた宝石が、月光を浴びてきらきらと輝き始めたかのようだ。指先は、いつの間にか取り出したスマートフォンを軽やかにタップし、関連情報を検索している。
『わかるわ。特に『響け!ユーフォニアム』の楽器の質感は圧巻だった。あの金属の冷たさと、奏者の息遣いが伝わるような描写……。私たちも、いつか宇治に行かないとね』
「うん。約束だねっ」
二人の間で交わされる、短いが確かな約束。それは、弓道とは全く別の世界で結ばれた、もう一つの固い絆の証だった。
「……紬、めちゃくちゃ楽しそうじゃん」
栞代が、呆気にとられたように呟く。杏子は、そんな紬の姿を、心から嬉しそうに見つめていた。自分の知らない友人の顔を見つけられたことが、宝物を発見したかのように嬉しかった。
やがてソフィアが『それじゃあ、また。納射会、頑張ってね』と手を振り、通話は終わった。
客間に、再び静寂が戻る。栞代はニヤニヤしながら、紬の肩を軽く小突いた。
「なんだよ紬。ちゃんといけてるやん?」
紬は、ふいっと顔をそむけ、いつものクールな表情を取り繕おうとする。だが、その口元には、楽しかった時間の甘い余韻が隠しきれずに、微かな笑みの形として残っていた。
「……それはわたしの・・・わたしの課題です」
短くそう応える声も、心なしか、いつもより優しく響いているように杏子には聞こえた。
「ソフィアが来て、紬、ほんとに柔らかくなったよ。楽しそう。でも、今までの紬もずっとわたし、好きだよ。どんな紬でも大好きだよ」
その言葉を聞いて、栞代は、さすが杏子、と感心した。この年になってその言葉は照れくさくてなかなか言えない。弓を握っていない時の幼稚園児力見事に発揮だな。この力にはだれも勝てない。
そして翌日のため、三人は布団に入る。
部屋には再び静寂が戻った。栞代と紬は、先ほどまで感じていた、胸の底に沈んでいた不安の澱が、ゆっくりと溶けて消えていくのを感じた。
弓に触れられない日々が、自分を弓から遠ざけてしまうのではないかという恐怖。
感情を出そうとすればするほど、本当の自分が分からなくなっていく混乱。
杏子は、その二つの魂の告白を、ただ静かに聞いていた。何をするわけでもしたわけでもない。でもちゃんと側に寄り添っていた。にこにこと、いつものように穏やかな表情で。
栞代も、紬も、もう何も言わなかった。ただ、杏子のその気持ちを、温かい毛布のように心にかけ、ゆっくりと目を閉じた。夜凪のように穏やかな静寂の中、三つの呼吸だけが、確かにお互いの存在を知らせ合っていた。




