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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
2年生
265/432

第265話 冬の夜の温もり 栞代編

ソフィアの祖父母の家から杏子の家へと戻る道すがら、紬は、初めてのデートというのもこういう心境なのかな、と思った。緊張、ドキドキにウキウキ。

杏子の家で食事をご馳走になるのは、もう両手では数えきれない。それでも、「泊まる」という行為は、他人の日常という聖域に、一晩だけ身を置くことを意味する。その事実が、紬の肩を無意識に強張らせていた。


玄関の引き戸を開けると、昼間と同じ温かい空気が、今度は「おかえり」という響きを伴って彼女たちを迎えた。


「紬ちゃん、ようこそ。さ、上がって」


穏やかな笑顔で出迎えてくれた杏子の祖母に促され、紬は小さく会釈して靴を脱いだ。その時、ひょっこりと顔を出した祖父が、にやりと笑って栞代を見る。


「栞代~、もういっそここに住め~」

「笑。まあ、オレはもうベテランだから。紬、分からないことがあったら何でも聞いてくれ」


ふんと胸を張る栞代の軽口に、紬の緊張が少しだけ解ける。祖父は面白そうに顎を撫でた。

「確かになあ。ここにはぱみゅ子が小学生の頃から住んどるワシより、トータルで見ると、ここの風呂に入った回数は、栞代に抜かれとるかもしれん」


「おじいちゃん、そんなわけないでしょ!」

杏子が笑いながらツッコミを入れるも、祖母は

「いや、そうかも?」と笑いながら本気で悩んでいた。


「杏子ちゃんをずっとお風呂に入れてた頃は、ここじゃなかったしねえ」と呟くと、杏子は真っ赤な顔をして「そ、その話題、やだ~」と俯き、俯いた。栞代と紬はくすくす笑った。


その温かい家族の肖像画の中に、栞代はごく自然な一部として溶け込んでいる。そして、自分もまた、その絵の隅にそっと描き加えられようとしているのだと、紬は感じていた。


ソフィアの家で美味しいお菓子をご馳走になったばかりで、お腹はあまり空いていなかったが、夕食はいつも通りの時間に始まった。明日の練習、そして明後日の納射会を万全の体調で迎えるための、これもまた一つの儀式だ。


「紬ちゃんの好きなもの、今度たくさん教えてね。いつでも作ってあげるから」


食卓で、祖母は優しくそう言った。賑やかな場が何より好きな祖父は、目をきらきらさせながら、日課となっている質問を始める。


「で、今日の練習はどうだったんだ? ぱみゅ子」


ぱみゅ子。それが、祖父が杏子を呼ぶ時の愛称だった。その突飛な愛情表現も、今ではこの家の日常風景の一部だ。


「いつもと変わらないよ」と杏子は言うが、祖父はスマートフォンの画面をスワイプしながら頷いている。一華が練習データを統計としてまとめ始めてから、杏子の許可を得て、彼女のその日の成績だけは特別に祖父の元へも送られることになっていた。的中率、射形の安定度、平均のかいの時間。それらの数字は、杏子のコンディションを雄弁に物語る。


ちなみに、部員全員のデータは、各自のスマートフォンに送られる。的中率が著しく上がった時などは、スポット情報としてチーム全体で共有されることもあるが、逆に調子を落とした時の情報は、その通知は本人と、状況を把握すべきコーチ、そして部長である杏子にしか届かない。


それは、個人の尊厳を守るための、繊細で優しいルールだった。杏子の結果だけが、当たり前のように共有されるのは、彼女の成績が天候のように、揺らがない普遍的な情報だと誰もが認識しているからに他ならない。なにせ、最初は一日の的中率と、連続的中数を、そして週、月、と区間を設けて発表し、共有していたが、その全てが杏子だったので、結局単純に杏子の成績を共有することになった。

一応全員の目標でもあるが、部長は宇宙人という共通認識があり、一華は2位まで共有するべきだはないかと思っている。


夕食と入浴を済ませ、三人は二階の客間へと向かった。杏子の祖父母の家は二階建てで、来客がある時は、祖父母は二階へは上がらない。二階には独立した洗面所もトイレも、小さな冷蔵庫まで完備されている。その完璧なまでのプライベート空間の確保は、この家の住人の、客に対する思いやりを象徴していた。いつもなら栞代は杏子の部屋に泊まるのだが、今夜は三人。柔らかな布団が三組、行儀よく並べられていた。


柔らかな照明の下、その日の緊張が解けていく空気の中で、会話は自然と、それぞれの胸の内へと向かっていった。


「しかし、コーチも酷いよな。射型変えるんだから、できるだけ早く弓に触らせてくれたっていいのに」


栞代が、ため息混じりに言った。射型変更に伴い、コーチから下された指示は、「完全なる弓禁止令」だった。新しいフォームを頭と身体に完全にインプットする前に、一旦今までの記憶をリセットする必要があるという。


「身体で覚えていることは多分忘れないとは思うんだけど、それでも、コーチの言うことも分かるし、なにより、コーチだからなあ」


それは、翼をもがれた鳥の嘆きにも似ていた。彼の指先は、今この瞬間も、相棒である弓の感触を求めて彷徨っているのだろう。早く新しい自分を試したい(はや)る気持ちと、弓を握れない焦燥感が、彼の言葉の端々から滲み出ていた。


不意に、杏子が顔を上げた。まるで、栞代が抱える不安という名の暗闇の中に、小さな窓を見つけたかのように、その瞳が柔らかな光を宿した。


「でもね、栞代。それって、もう一度、初めて的に(あた)った時の感動を味わえるってことじゃない?」


そのあまりにも純粋な視点に、栞代は言葉を失う。自分の思考回路にはまったく存在しなかった、ポジティブというより、もはや世界の真理を発見したかのような杏子の言葉。


「……そういう、理屈に、なるのか」


戸惑いながらも、否定できない自分に気づく。栞代は、思わず視線を畳の上へと落とした。


「なるよぉ」と、杏子はうっとりと目を細める。「わたし、あの時のこと、絶対に忘れられないもん。心臓の音が耳のすぐ側で聞こえて、矢が的に吸い込まれた瞬間、世界から音が消えたの。あの感動を、栞代はもう一度味わえるんだよ。いいなあ……」


まるで、自分のことのように、あるいは大切な宝物の話をするかのように、その声は熱を帯びていた。心底羨ましそうなその表情に、栞代の強張っていた心が少しだけ(ほぐ)されていくのを感じる。


不意に、杏子は悪戯っぽく片目をつぶった。

「ま、でも、わたし、初めて中るまで、二年くらい掛かったけど」


その唐突な告白に、栞代は我に返った。そうだ、この目の前の宇宙人は、その才能を開花させるまでに、人一倍の時間と努力を費やしたのだ。その事実が、栞代の心をさらに軽くする。しかし、同時に重大な問題に気づいた。


「……それじゃ、夏の大会に間に合わないじゃない!」


ほとんど悲鳴に近い栞代のツッコミに、杏子は「てへっ」と舌を出して笑う。その無邪気な笑顔につられて、栞代も、そして静かに話を聞いていた紬も、堪えきれずに笑い出した。


ひとしきり笑った後、杏子は不意に真顔になり、栞代の瞳をじっと見つめた。その眼差しには、からかいの色など微塵もなく、ただ静かで絶対的な信頼だけが宿っていた。


「栞代は才能があるから、大丈夫だよ。努力もするし、それに体格も体幹も完璧っ」


確信に満ちたその言葉が、栞代の心にすとんと落ちる。その真っ直ぐすぎるほどの信頼が、少しだけ気恥ずかしい。栞代は照れ隠しに、わざとそっぽを向いた。


「てきとーな事言って…。じゃあ、そんなに簡単なら、杏子も射型変えろよっ」


少し拗ねたように、甘えるようにそう言うと、杏子は先ほどまでの真剣な表情から一転、むっとしたように可愛らしく頬を膨らませた。


「それだけは、やだっ」

きっぱりとした、子どものような拒絶。そして、大切な宝物の在り処を教えるかのように、少しだけ誇らしげに、でもどこか愛おしそうに続けた。


「だって、おばあちゃんから教えて貰ったものなんだもんっ」


その言葉に、栞代はハッとした。そうだった。杏子のあの揺るぎない、太陽のような射の源泉。杏子を支えているものに、今、触れたような気がした。自分たちの知らない、杏子とお祖母様の時間の積み重ねが、あの美しい射法を作り上げているのだ。


もう、何も言えなかった。ただ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。栞代は、先ほどの自分の軽口を恥じるように、でもどこか救われたように、ふっと笑みをこぼした。



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