第263話 観測者のモノローグ
街の空気が、年の瀬特有のそれに塗り替えられていくのを肌で感じる。どこか浮足立ったような喧騒と、それでいて新年を前にした静けさがちぐはぐに混ざり合い、人々はみな、見えないゴールテープに向かって走り出す前のランナーのように、そわそわと息を整えている。
イルミネーションの光は、冬の乾いた大気に滲んで輪郭を失い、家々の窓から漏れる暖色系の灯りが、年の終わりという名の港に停泊する船の灯りのように見えた。
光田高校弓道部も、その緩やかな季節の移ろいに身を任せていた。全国選抜大会が終わり、あの緊張感に満ちた追い込みの日から続いていた張りつめた糸が弛められたように一転した。
道場を支配していた「勝つための空気」は、「力を上げる」という前のめりなものから、「力を落とさない」という、いわば凪の状態へと移行していた。
もちろん、誰もが真剣であることに変わりはない。けれど、弦音の響き方ひとつ取っても、試合前の、神経を削るような鋭利さは影を潜め、どこか牧歌的な響きを帯びているようにわたしの耳には聞こえた。。
そういった雰囲気の中、ただ一人、季節の風にも、時の流れにも、心の揺らぎにも、一切関与しない人間がいる。
道場の隅で、わたしはタブレットを片手に、じっと一人の人物を観察し続けていた。データ収集はわたしの日課であり、趣味であり、生き甲斐であり、そして使命でもあった。
その人は、まるでこの道場という閉じた世界に屹立する一本の巨木のように、あるいは、自ら光を放ち続ける恒星のように君臨したかと思えば、どこに居るのか分らないほど存在感がない時もある。全く意味が分らない。
トップアスリートの世界には、精神性を説く格言が無数に存在する。「緊張感が必要だ」とか、「追い込まれた時の実力が本物だ」とか。あるいは、「調子の悪い時の成績こそが、その選手の本質を示す」などという言葉も聞いたことがある。
スポーツ科学の世界では、この言葉たちは当然の法則として受け入れられている。それらは皆、人間という存在が、いかに精神的な浮き沈みに左右される不完全な生き物であるかを前提とした、先人たちの知恵であり、祈りだ。
けれど、この人には、そのどれもが当てはまらない。まるで、人類が積み上げてきた心の克服の歴史など、別世界の出来事だとでも言うように。
落ち込むとか、弓が嫌になるとか、そういう感情の澱のようなものが、心に溜まることがあるのだろうか。どんな人間にも必ず訪れる「調子の波」という不可避の現象は、この人の人生の航路には存在しないのだろうか。
射位に立つ姿は、まるで古い寺院の仏像のように動じることがない。大会前の殺気立った雰囲気の中でも、今のような穏やかな練習でも、射は何ひとつ変わらない。いつも同じだ。退屈極まりない。
わたしのタブレットに記録された、膨大な数の彼女の射のデータを見返す。過去八ヶ月間、わたしが射を観察し続けた結果がそこにあった。
データの中には、調子の「波」と呼べるものは見当たらない。あるのはただ、完璧な射法八節の、寸分の狂いもない反復。もし、そこに変化と呼べるものがあるとすれば、それは「間」の取り方の、ほんの僅かな時間の差異だけだ。どんな選手にも必ずある調子の波—それが見当たらない。
一射一射の間隔、会に至るまでの時間。そのコンマ数秒の揺らぎだけで、彼女は自らの内にある全てを調整し、常に同じ品質のアウトプットを叩き出す。それはもはや、人間の業ではない。精密な工業製品の品質管理、あるいは、完璧なプログラムによって制御された機械の動作に近い。
まるで精密な時計の振り子が、わずかにその周期を調整するように、彼女は自分のリズムを微調整する。それだけで、あらゆる状況に対応してしまう。
常識が、まるで通用しない。
どうやって分析すればいいのだろう。
わたしは記録することとその分析をすることで生きてきた。勉強もスポーツもすべてその結果だ。
わたしの脳が持つ全ての分析能力を駆使しても、この人の本質には、その表層すら掠めることができない。まるで、未知の物理法則で構成された、異世界の生命体を観察しているようだ。
来年には、新しい分析装置がいくつか届く。もちろん、大学の研究室にあるような、科学の総力を結集したシステムではない。それでも、ハイスピードカメラやバイタルを量るウェアや、動作解析ソフトは、スマートフォンのカメラだけで全てをまかなっている今とは、比較にならないほどの解像度で世界を見せてくれるはずだ。
弓道部全員の技術向上。それが、データ分析を担当する私に与えられた第一の任務。目標は全国制覇。けれど、私にはもう一つ、誰にも明かしていない、個人的な使命がある。
この、宇宙人の正体を暴くこと。
データという客観的な証拠をもって、存在の謎を解き明かすこと。
すう、と息を吸い、ゆっくりと弓を引き分けていく。その背中を、わたしは凝視する。わたしの視線は、もはや単なる観察ではない。それは、難解な暗号を解読したい執念であり、遥か彼方の星に知的生命体の痕跡を探す天文学者の祈りにも似ていた。
それでも。
美しい。
その動作は、寸分の無駄もなく、ただひたすらに美しい。だがその完璧すぎる美しさが、わたしを苛立たせる。人間らしい揺らぎや、不完全さという愛嬌を、どうしてあなたは見せてくれないのか。
「……あの、一華? さっきから、なんだかその目、恐いんだけど」
射を終え、残心からゆっくりと身体を戻した部長が、振り返ってわたしを見た。その声は、冬の陽だまりのように、屈託がない。
「あ、杏子部長。すみません、姿勢を目視でチェックしていました」
わたしは慌ててスマートフォンに視線を落とし、平静を装う。心臓が少しだけ速く打った。見透かされたのだろうか。わたしの、嫉妬と畏怖が混濁した、粘着質な視線を。
同時に内心では、またしても無防備さに驚いていた。普通なら、あれほど熱い視線を向けられれば警戒するものだ。しかしまるで子犬のように無邪気に首をかしげている。
「部長ご自身ではどうですか? なにか、いつもと違う感覚などはありますか?」
問いかけながら、私は祈っていた。頼むから、何か言ってくれ。「今日は少し腕が重い」とか、「集中しきれなかった」とか。人間らしい、些細な綻びを見せてくれ。そうすれば、わたしも少しは救われる。あなたと同じ地平に立っているのだと、安心できる。
「うーん。無いと思う~。わかんないけど~」
これだ。
この、あまりにも無邪気で、無頓着な返答。
みんなこれに騙される。最初誰が言い出したのか分からないが、部内では「部長は絶対に宇宙人だ」という説が定着している。その根拠は数え切れないほどあった。
常人離れした的中率。どんな状況でも変わらない精神状態。そして何より、この底抜けの天然さ。まるで地球の常識を知らない異星人のように、屈託なく笑う。
自分がどれほど異質な存在であるかに、全く気付いていない。あるいは、気付いていながら、それを隠すことすらしない。
この天真爛漫さに、きっとみんな騙されるのだ。人懐こい笑顔の裏に隠された、底知れない実力と、孤独なまでの完璧さ。
やはり、部長は宇宙人だ。
ならば私は、地球でただ一人の、部長を専門とする研究者になる。
いつか必ず、あなたの全てを分析し、理解し、言語化してやる。あなたのその、人間離れした力の源を、わたしだけが知るのだ。科学者としての知的好奇心。未知なるものを解明したいという、抑えがたい欲求が沸き上がってくるのを感じる。
わたしは、あなたという名の、最も美しく、最も難解な謎を解き明かしたい。
心の奥底で、マグマのように熱い感情が渦を巻く。それは憧れに似て、嫉妬に似て、そして、叶わぬ恋にも似ていた。
道場に響く弦音。的に突き刺さる矢の音。そして杏子の変わらぬ射の美しさ。一華はタブレットにデータを記録しながら、今日もまた「宇宙人」の観察を続けるのだった。
師走の陽射しが、道場の窓から斜めに差し込んでいる。光の粒子が舞い踊る中で、杏子の射は今日も完璧だった。そして一華の観察もまた、今日も続いていく。答えのない謎を追い求めて、彼女は今日も杏子を見つめ続けるのだった。
必ず、分析してやるんだっ。
だって、わたしは・・・・・
あなたが、大っ嫌いなんだから。




