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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
2年生
262/433

第262話 冬凪の弦音

乾いた弦音つるねの最後の残響が、冬の夕暮れに吸い込まれていく。ぴんと張り詰めていた道場の空気が、ふうっと息を吐くように弛緩した。床板の冷たさが足袋を通してじわりと伝わり、ぴりりとした冬の匂いが、道場の古い木の香りと混じり合って鼻腔をくすぐる。練習の終わりを告げる号令が、静寂を取り戻した空間に柔らかく響いた。


「お疲れさまでした」

「「お疲れ様でした」」


部員たちの声が重なり合い、一日の練習を締めくくる。栞代は弓袋に愛弓を収めながら、今日から始まった新しい挑戦への決意を胸に秘めていた。射型を変えるという選択—それは単なる技術的な変更ではなく、自分自身との決別を意味していた。


部員たちの声が重なり、それぞれの安堵と疲労を滲ませながら早めに帰る者もいる。弓を片付ける者、談笑する者。その喧騒を背に、杏子は栞代と紬に視線を向けた。


「紬、今日うちに寄らない? 栞代が来ることになってるんだ」


杏子の声は、いつものように柔らかく温かい。夕暮れの光に照らされた彼女の横顔は、幼い子供がわくわくしながら友達を誘う、喜びに満ちていた。


「それは、・・・・わたしの課題として受け止めます」


紬が答えると、栞代はくすりと笑った。自分だけじゃなく、紬もまた殻を破ろうとしてるんだ。三人は肩を並べて校門を出る。師走の風は頬を刺すように冷たかったが、心は軽やかだった。


杏子の家に着くと、玄関から既に夕餉の支度をする音と、ほのかに漂う出汁の香りが迎えてくれた。上がり框に靴を揃えて置き、三人は居間へと足を向ける。


「おかえり、杏子ちゃん。栞代ちゃんに紬ちゃんも」

祖母の声に続いて、祖父の朗らかな笑い声が響いた。

「今日も練習、お疲れ~。ちょうど夕飯の用意ができたところ。タイミングばっちりやで」

杏子の祖父は上機嫌で、エプロン姿のまま手を振っている。


「紬、今日はいきなりで無理かな? 栞代は泊まるから、紬も泊まりなよ」

杏子の提案に、紬は少し驚いたような表情を見せた。

「それも……わたしの課題ではありますが、用意をしていないので、また後日・・・・」

そう言いながらも、紬の口元にはかすかな微笑みが浮かんでいる。その様子を見て、栞代と杏子は顔を見合わせて笑った。

「そりゃそーだね。ごめんっ。言ってれば良かった」



夕食の席では、祖父がはりきってた。


「今日はさ~。おばあちゃんが料理に忙しそうやったから、たっぷりと手伝ったんやでえ」

「え~。おじいちゃん、何作ったん?」杏子が感心したように聞いた。

「いや、何もよう作らんから、がんばれ~って応援しててん」

「さっきエプロン浸けてたん」

「やる気は口だけではあかん。ちゃんと表現しないと」


「でも、実際には何もしなかったと」

栞代がたまらずつっこむ。


「おじいちゃん、じゃあ、洗い物一緒にしよっ」

「うむ。ぱみゅ子と一緒なら、おじいちゃんはなんでもできるんじゃ。知っとるか?

男は大事な女の子のためなら、なんでもできるんじゃ」


「そのセリフのあとで、洗い物をする男の人も、きっと珍しいと思うけど、いいことだ」

栞代の一温かい笑い声が食卓を包む。湯気の立つ味噌汁の香り、炊きたてのご飯の甘い匂い、そして祖母手作りの煮物の優しい味—すべてが心を和ませてくれる。


食事が一段落した頃、栞代がおじいちゃんに話しだした。


「おじいちゃん、オレさ、射型を変えて一から取り組むことにしたんだ」

「ほ~。今取り組んでいるのは、弓道連盟流とも言うべき、人類が数多の試行錯誤の上到達した形じゃが、敢えてそれを捨てるんじゃな」


「おじいちゃん、えらい詳しいな」

「当然じゃ。だからさっき言っただろう。大事な人のためなら、どんなことでもすると」

「で、おばあちゃんがやってた弓道の勉強をしたんだよね~」

杏子がにっこにこ顔で突っ込むと、おじいちゃんは顔を真っ赤にしながら言った。


「ば、ばか、わしゃぱみゅ子にだなあ・・・・・・。まあいい、栞代、そしたら、何を目指すんじゃ?

日置流へきりゅうか? 小笠原流おがさわらりゅう本多流ほんだりゅう大和流やまとりゅう尾州竹林派びしゅうちくりんは、が有名ところじゃな?」

「へー、おじいちゃん、よく知ってるなあ」栞代が驚いた。

「ふふふ。これだけじゃないぞ、日置流へきりゅうと一言で言ってもじゃぞ、日置流印西派いんさいは日置流竹林派ちくりんは日置流道雪派どうせつは日置流雪荷派せっかーはなどがあるぞ」

「それ、全部どう違うの?」

杏子が当然の疑問を口にすると、祖父は急に口ごもり、

「そ、それはまだ研究中じゃ」

と言って、一笑いを誘った。


祖父がゆっくりと言った。

「ま、栞代君がそう決めたなら、きっと理由があるんじゃろ。若いんじゃからなんでもトライして見たらいい。人生には、時として大きく舵を切らなければならない時がある。その勇気を持つことは素晴らしい。変わらないでいる勇気も同じように素晴らしいけどな」


「どっちだよっ」

栞代が笑いながら突っ込む。


「自分でちゃんと決めたら、どっちでも同じぐらい素晴らしいんじゃ。強制されたり、義務だったりすると、とたんにアウトじゃな」

栞代は、いつも軽口なおじいちゃんの一番大事にしているものが分かる気がした。



食事が終わり、祖父自慢の紅茶が運ばれてきた。アールグレイの上品な香りが部屋に広がり、三人は茶器の温もりを手のひらで感じながら、ゆったりとした時間を過ごしていた。


その時、杏子のスマートフォンが鳴った。画面には「ソフィア」の文字が踊っている。

「あ、ソフィアだっ。というか、アンナかな?」


杏子がビデオ通話に出ると、画面に現れたのはソフィアの笑顔だった。しかし、すぐに画面が切り替わり、小さな女の子の顔が映し出された。


「Kyoko!」

アンナの弾むような声が届く。ソフィアの通訳を交えながら、アンナは今日の観光の様子を身振り手振りで報告してくれる。今日は「けいおん!」の豊郷小学校旧校舎を見に行ったらしい。アンナだけじゃなく、ソフィアも興奮していて、微笑ましい。

アンナは興奮した様子で、今日訪れたという学校の写真を見せながら、覚えたての日本語で「キレイ!」「スゴイ!」と繰り返す。その無邪気な姿に、杏子の顔にも自然と笑みが浮かんだ。


いいなあ。雪のように白い頬を紅潮させながら話す姉妹の姿は、まるで絵本から飛び出してきた妖精のようだった。真映がソフィアが綺麗綺麗って言う気持ちが分かるな。


十分ほど話した後、アンナは「Yötä yötä, Kyoko!"(おやすみ、おやすみ、杏子!)」といって、お母さんのミーナに連れて行かれた。


「杏子、ありがとう。実は、お願いがあるの」

ソフィアの表情が少し真剣になる。


「四月から今まで、ずっと祖父母と一緒に暮らしてきたから、エリックとリーサ、きっと寂しがってると思うの。もしよかったら、時間のある時に顔を出してくれない?」


通話が終わった後、栞代がぽつりと呟いた。

「エリックさんも、杏子のおじいちゃんに似てるんだなあ」


その言葉に、杏子ははっとした。

「そういえば、去年の夏、わたしが両親と旅行に行った時も、同じようなことがあったね」


「ああ、あの時はつぐみと一緒に遊びにきたな」


栞代もつぐみも、家に居たくない理由があった。杏子の父祖簿が寂しいというより、居場所の心配をしてくれた杏子の提案でもあったな。

夏の思い出が蘇る。蝉の声が響く夜、杏子が居ないところでたっぷり話した杏子の話。内緒、という約束を栞代はずっと守ってる。祖父が作ってくれた手作りのかき氷、祖母が切って持ってきてくれたすいか。三人で食べた。美味しかったな。—すべてが昨日のことのように鮮やかだった。


「エリックさん、しっかりしているように見えて、意外に杏子のおじいちゃんと似てるのかもしれないな」


栞代の言葉を受けて紬が静かに言った。

「わたしはよくソフィアの家に行くから、エリックさんともよく話すけど。エリックさんはコーヒー、杏子のおじいちゃんは紅茶という違い、それだけね」

と言って、ぎこちなく笑った。


時計の針が九時を回った頃、三人は杏子の祖父の車で紬を送ることになった。


「明日は泊まれよ〜」

栞代が車窓から声をかけると、紱は小さく手を振った。夜の静寂に包まれた住宅街を、車はゆっくりと走っていく。街灯の光が車内を断続的に照らし、三人の顔に移ろう影を落としていた。


杏子の家に戻り、急いでお風呂に入る。明日も練習があるからと、二人とも早めに休むことにする。


杏子の家に布団を並べて横になりながら、栞代がぽつりと言った。

「なんだか、合宿みたいだよな」


杏子が隣の布団から答える。

「楽しすぎるね」

その声には、満ち足りた幸福感が滲んでいた。


杏子は天井を見上げながら、小さく応えた。冬の夜の静寂の中に、二人の満たされた声が溶けていく。射型を変えるという栞代の大きな決意も、遠い友からの温かな依頼も、賑やかだった食卓の記憶も、すべてがこの静かな夜に優しく包まれていく。それは、ただ過ぎていくだけの一日ではない。明日へと繋がる、確かな熱を持った、大切な一夜だった。冬凪のように穏やかで、それでいて、新しい弦音の響きを予感させる、そんな夜が、静かに更けていった。


やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。窓の外では、冬の星座が静かに瞬いている。明日もまた、新しい一日が始まる。そして二人は、それぞれの夢に向かって、ゆっくりと歩み続けていくのだろう。


時計の針が深夜を指す頃、家全体が穏やかな眠りに包まれていた。それは、友情という名の温もりに守られた、かけがえのない一夜だった。

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