第261話 弓道着に染みつく、笑いと情熱
午後は自由練習の時間だ。公式練習でさえ「自主性を重んじる」という光田高校弓道部の方針から、強制的なことは一切ない。それが自主練習ともなれば、道場に流れる空気は一層おだやかなものになる。部員たちはそれぞれ談笑したり、自分のペースで準備をしたりと、和やかな雰囲気に満ちていた。
しかし、その空気はいつも一人の射手によって心地よい緊張感へと変わる。
凛とした静寂の中、杏子が射位に立った。ゆっくりと弓構え(ゆがまえ)に入り、しなやかに弦を引き分けていく。彼女が「会」に至ると、ぴんと張り詰めた糸のように、周囲の空気までが引き締まるのを感じる。やがて放たれた矢は、乾いた弦音を残して的へと吸い込まれ、的の中心を射抜く小気味よい音を響かせた。その一連の流れるような動作と、揺るぎない集中力は、他の部員たちの心にも火を灯す。
そしてその後には栞代も控えている。穏やかではあるが、気を抜いていい時間があるはずもない。
緊張とリラックス。誰かが意識しているわけではないが、光田高校弓道部の練習には、その二つの要素が絶妙なバランスで溶け合っていた。杏子と栞代が生み出す緊張感が道場全体に良い影響を与え、他の部員たちも自然と集中力を高めていく。そして弓を引き終えれば、また和やかな雰囲気が聞こえてくる。その繰り返しが、彼らの強さの源なのかもしれなかった。
そして自主練習では、それぞれが自分のペースと、一華が作成した課題ノートに従い、練習に取り組んでいた。
栞代は、弓に触れることは禁じられているため、今日は完全にサポートに回っていた。後輩たちの射型をチェックしたり、的の交換を手伝ったり、普段はなかなかできない細かな作業に専念している。
弓を引けない今だからこそ、チーム全体を俯瞰して見ることができる。これも、拓哉コーチが言っていた「一から始める」ということの一部なのかもしれない。
一華の取り組みもしっかりと見ることができて、大いに参考になった。
一華は相変わらず、タブレットに向かって何かを記録している。的中率だけでなく、射の間隔、呼吸のタイミング、風向きまで細かくデータを取っている。まゆもそれをサポートしている。
「データは嘘をつきません。必ず役に立ちます」
そんな一華の真剣な姿勢を見て、まゆが微笑みながら言った。
「一華は本当にデータが好きよね」
「数字で見ると、成長が実感できるんです」
夕方、練習が終わり、後片付けをする部員たちを前に、拓哉コーチが少し申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「みんな、年内はずっと練習だが、無理はするなよ。午後からは休んでいいんだからな。いや、午前の公式練習だって、ソフィアのように届け出さえすれば、何のお咎めもない。年末は家族との時間も大切だろう? ソフィアのように家族旅行も大切だ。遠慮せず、ちゃんと家族を大切にしろよ」
コーチの優しい言葉に、あかねがにこやかに応える。
「ソフィアはもう半年以上、8カ月ぶり? しかも異国。家族と交流したくなると思うけど、こちらは毎日うるさいだけだからなあ」
部員からクスクスと笑い声が聞こえる。
「それに、ここも家族だし」
すると、すかさず真映が続けた。
「もう少しだけ、お姉様方が優しければ、もっと最高の家族なんですけどねえ」
その言葉に、あかねと楓が真映を軽く小突き、道場に笑いが起こる。
コーチは苦笑しながら、視線を部長である杏子に向けた。
「杏子さん。部長が練習皆勤だと、他の部員も休みにくいんじゃないか? 年末なんだし、たまには休んだらどうだ? 高校生活はクラブ活動だけじゃないぞ」
「そ、そうですね。弓道だけが全てではありませんし……。じゃあ、早速明日はお休みにします」
杏子の殊勝な言葉に、間髪入れず栞代が鋭く切り込んだ。
「コーチ。杏子がここに来なければ、中田先生の道場に行くだけです。そうなると、オレも付き添いでそっちに行くことになる。……で、みんなはどうする?」
栞代が問いかけると、真映、楓、つばめ、あかねが声を揃えた。
「「「「部長と一緒に練習しま~す!」」」」
紬も静かに頷いた。
「それは、わたしの課題です」
一華まで「データ取りに行きます」と参加した。
「もしかして、コーチが一日ぐらい休みたいとか? デートですか」
あかねの問いに、コーチは慌てて首を横に振った。
「ば、馬鹿なことを言うな! 私はどちらにせよ、道場に詰めている!」
そのやり取りを見ていた真映が、ニヤリと笑ってコーチに矛先を向けた。
「あーあ。コーチこそ、いい若者がたまにはデートする相手とかいないんですか~? 結構イケメンなのにな~」
真映の容赦ないツッコミに、拓哉コーチはぐっと黙り込み、それを見た部員たちはクスクスと笑いをこらえきれない。
「……就任以来、君たちとの距離を縮めようとしたのは、どうやら間違いだったらしい。男女の担当を入れ換えて滝本先生と交代した方がいいのかもな」
滝本先生は、この弓道部の顧問で、組織上コーチの上役である。穏やかだが厳格な女性教師だ。しかも交渉能力バツグンで、学校との折衝も得意だ。
その名前が出た途端、真映が慌ててフォローに入る。
「あっ、ダメですよ! 拓哉コーチがいるから、みんな練習に気合が入るんです! ね、部長!」
突然話を振られ、杏子が「えっ、わ、私?」と戸惑っていると、それまで黙って聞いていた栞代が、やれやれといった風に真映の言葉を遮った。
「おい、杏子に責任を被せるなよ」
「で、でも、本当だよね?」
珍しく困った表情の真映が一華を見ると、今度は一華が冷静に割って入った。
「統計的に見ると、拓哉コーチがいる時の部員の的中率は、居ない時と比べて5%を越える上昇率があります。これは、十分な有意差があるといえます。部長は全く変わりませんが、部長は地球人ではありませんので、全く参考になりません。統計と分析の敵です。大嫌い」
いつもだが、冷静沈着に機械のごとく発音するので、冗談か本気か分らなくなる。
「一華さん……」
コーチが複雑な表情を浮かべる。自分が居る時と居ない時まで区別して記録を取っているのか。
「つまり、データが証明してるんです。コーチは必要な存在だということを」
一華がにっこりと微笑む。
「よし、今日は解散だ。君たちに情をかけた俺が馬鹿だった」
拓哉コーチがそう言いながらも、心なしか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「コーチ、明日もよろしくお願いします!」
みんなが声を揃えて言うと、コーチは照れを隠すように強引に難しい表情を作りながら道場を後にした。
「それにしも一華、そんな統計まで出してたんだな。一華のことだから、はったりじゃないよな」
栞代が少し呆れながら話すと
「はい。もちろんです。正確には、5.44%ですが、四捨五入しました」
部員たちは、お互いを見回して呆気にとられ、そして笑い合った。年の瀬の道場には、こうしてまた一つ、光田高校弓道部らしい温かな思い出が刻まれたのだったのだった。




