第259話 決意表面
拓哉コーチは栞代の決意を聞き終えると、深く頷いた。
「覚悟を決めたな。じゃあ、今からしばらく弓は触らないように」
「え?」
「一旦、弓から離れる必要がある。完璧に身につけた型を、頭と体から完全にリセットする必要がある。完全に忘れることは無理だが、それでも、身体に今からリセットするよ、と教えてあげないと。
まさに、一から始める覚悟が必要だ。だから実際に弓を引くまで三カ月、的中するまで半年懸かる。まずは徒手練習と映像研究から始める」
拓哉コーチの言葉は、長年染み付いた習慣を断ち切るかのような、厳しいものだった。
一気に話したあと、コーチは最後に念を押した。
「辞めるか?」
「いえ、お願いします」
栞代は迷いなく頷いた。
この日の午後の自主練習も、いつも通り弓道部全員が参加する予定だ。ただ一人、ソフィアを除いて。フィンランドから家族が来日しているソフィアは、この日、楽しい再会を祝い、家族で日本での観光旅行に出掛けていた。
部室では、各自が思い思いの昼食を広げていた。家から持参した手作り弁当、コンビニで買い出ししてきたおにぎりやパン—それぞれが好みの昼食を楽しんでいる。
そんな中、栞代の弁当は今日も杏子の祖母が杏子の分と一緒に作ったものだった。シンプルだが、アスリート向けの栄養バランスを考えた丁寧な弁当。彩りも美しく、愛情が込められているのが一目で分かる。
「コーチと何話してたの?」
杏子が尋ねた。その言葉に、栞代は少し身構えるように箸を止めた。
「ああ。実は杏子に少し話があるんだ」
「うん。どうしたの?」
杏子のまっすぐな視線に、栞代は一瞬躊躇したが、意を決したように口を開いた。
「その、言いにくいんだが、オレ、射型を変えようと思う。」
「え?」
杏子は箸を止めて、驚いたように栞代を見つめた。一緒に食事を取っていた紬、あかね、まゆも手を止めて、一斉に栞代に視線を向けた。
「どうして?」
まゆが言う。
「クラブでの栞代の的中率は杏子に次ぐんだよ。冒険する必要はないんじゃない?」
まゆは選手兼任ということもあり、メインのマネージャー業務は一華が担っているが、それでも一華の補佐として的中数の確認や分析は一緒に行っていたので、数字に現れる部員たちの実力差は完全に把握している。
あかねが続く。
「紙一重の差だったから、その差を埋めるために、ということだろ。でも、今のままで追求する、という方法の方が安全じゃないか。 冒険する必要はないんじゃないかな」」
まゆが頷きながら付け加えた。
「実は、まだ正式には決定じゃないんだけど、一華が希望して、今以上に精密に射型分析できる機械とか、体調を測定するウェアとか導入して、ワンランク上の方法で分析を徹底することになってるの。むしろそれに従う方がリスクないんじゃないかな?」
全員が、栞代を心から心配していることが伝わってきた。
まゆの言葉に、紬も静かに頷いていた。一華らしい科学的なアプローチ。紬は精神的に強くあろうとしていて、射型は変えるつもりは無かった。今までやってきたことの延長での効率的なアプローチに期待は高まった。
「みんな、真剣に心配してくれてありがとう」
栞代は、いつになく真剣な顔で言った。
「確かに、みんなの言う通りだ。その方が安全な道だとも思う。でも、これは悩んで考え抜いた結果なんだ。ま、一晩だけだけどな」
その言葉に、部員たちの表情が少し和らいだ。
栞代は苦笑いを浮かべながら続けた。
「みんなもそうだと思うけど、オレは弓に関してはほんとに杏子に憧れてる。でも紙一重届かなかったことで、やはり何かを変える必要があるって思ったんだ。失敗するかもしれないけど、とにかく何かをやりたい。そう思ったんだよ」
栞代の言葉には、悔しさをバネに、新たな道を開こうとする強い決意が宿っていた。その力強い眼差しを見て、全員が静かに頷いた。
その様子を、すぐ隣にいた一年生たちも聞き耳を立てていた。地獄耳の真映が、さっそく口を挟んでくる。
「えっ。栞代先輩、射型変えるんですか?斜め打ち起こし?よしっ。わたしも変える。」
全員が、またか、という表情で真映を見る。
「だって、謎だったんですよ。わたしの方が可愛いし、足も長いから、スタイルもバツグン。男にもモテモテ。なのになぜ杏子部長に全然敵わないのかっ。射型が私に合ってなかったんですよっ。これだっ。これなんだ。わたしも変えま……」
そこまで言った時、あかねが「パーン」と乾いた音を立てて、真映の肩を軽くはたいた。
「真映、あんた、自信満々やな。でも、そういうのは勘違いって言うんやで」
その的確なツッコミに、部室全体が大爆笑に包まれる。
栞代はそれでも、大事なことを忘れずに、紬に視線を向けた。
「紬はどう思う?」
紬は一瞬考えるような仕草を見せてから、いつものように淡々と答えた。
「それはわたしの課題ではありません」
その完璧なワンパターンに、再び大きな笑いが起こった。深刻だった話は、すっかり冗談めいた空気の中に溶けていった。
練習が始まり、杏子が弓の準備をしていると、栞代が隣に近づいてきた。
「杏子、というわけで、オレ、しばらく弓には触るなってコーチから言われているんだ。だから今日からしばらくは、完全に裏方に回るよ」
栞代は努めて明るい声で言った。
杏子が少し戸惑ったような表情で栞代の顔を見つめた。
「栞代、無理してない?あんまり無理しないで。楽しむことが一番大事だよ。おじいちゃんがいっつもそう言うもん」
「ははは。杏子の話題はいつもおばあちゃんかおじいちゃんだな」
栞代の言葉に、杏子は頰を真っ赤にして少し俯いた。確かに、いつも祖父母の話ばかりしている自分に気づいて恥ずかしくなったのだ。
「いやいや、杏子の話は、オレ大好きだよ。もっともっとして欲しいぐらいだ。それにもっと正直に言うと、少し羨ましい」栞代は優しく微笑んだ。
「でも、やりたいんだ。今のままじゃ、杏子になりたいだけ、になってしまう。もちろん、ずっとそれでもいいと思ってきたし、今もそれは間違ってないと思う。だって、杏子だからな。杏子はほんとに素晴らしいからな」
栞代のまっすぐな賞賛に、杏子の顔はますます真っ赤になり、俯いた。
「でも、オレはオレの弓をやりたいと思ったんだ。もう一度。最初から。許してくれるか?」
「許すだなんて。栞代を応援するよ。今までみたいに指摘できないかもしれないけど、わたしも一緒に勉強する」
「いや、杏子に負担はかけられないよ」
「わたしがそうしたいんだよ」
杏子の意外に強い口調に、栞代は,そいえば、杏子は物腰はめちゃくちゃ柔らかいけど、一度言い出したことは絶対に変えない頑固者だったな、と思い出した。
「杏子は射型を変えるとか言うなよ」
「そ、それはない。だって……」
「おばあちゃんと同じ射型だもんな」
「う……うん」
杏子はまた真っ赤になって俯いたが、栞代はそんな杏子を見て安心した。杏子は杏子のままでいてくれる。
「それに杏子」
「うん?」
「オレ、杏子の影響から抜けて、そして、その……」
「うん」
栞代は一瞬躊躇したが、ついに口にした。
「杏子を超えたいんだ」
「えっ?」
「杏子を超えたい。そこで初めて、本当に杏子を支えることができると思うんだ。杏子を支えたい。そして、杏子の夢を叶えたいんだ」
栞代の、静かだが強い言葉。その言葉に込められた深い想いを理解した杏子は、思わず呟いた。
「栞代……」
杏子の瞳が大きく見開かれる。
「一緒に戦う、団体戦だからな」
栞代が、穏やかに微笑む。
そして杏子は、思わずそっと栞代に抱きついた。
「杏子……」
「栞代、ありがと」
杏子の目に、光るものがあった。それは感謝と、そして栞代の決意に応えたいという、新たな決意の涙だった。




