第258話 栞代の選択:自らの弓道を求めて
選抜大会の準優勝。大会翌日から再開された午前中だけの公式練習は、やがて日常のルーティンへと戻っていく。
栞代は、杏子のコピーから脱出し、自らの弓を追求しようと決意したが、言葉で表現するほど、簡単なことではなかった。
また一からやるのか。むしろ、成績が落ちたらどうするのか。辞めた方がいいのか。このまま進むべきなのか。
射場の片隅で、一人素引きを繰り返す栞代の射は、どこまでも美しく、淀みがなかった。だが、彼女の心は、もはやその完璧さに満足していなかった。頭の中を巡るのは、決勝戦、そして杏子のあの最後の射。そして、自分たちと鳳城高校との間にある、あの「紙一重」の差。
(どうすれば、あの壁を破れるんだろう……)
栞代は、ずっと杏子に憧れてきた。その射を、その精神を、まるでコピーするように追い求めてきた。杏子のようになれば、きっと自分も、あの頂点に立てると信じていた。だが、届かなかった。あの夜、焼肉店で杏子が語った「みんなが信じて見ててくれるから、自然と矢が飛んでいってくれた」という言葉が、栞代の胸に深く刺さっていた。それは、彼女がどれだけ杏子を真似ても、決して手に入らない、杏子自身の強さだった。
午前の公式練習が終わった時、栞代は意を決して拓哉コーチに声をかけた。
「コーチ、少し、相談があるんですけど」
拓哉コーチは、いつものように穏やかな笑みを浮かべて、栞代を向かい入れた。
「どうした。珍しいな。いつも自信満々な栞代がそんな顔をして。何か悩んでいることでも?」
栞代は一度深呼吸をし、真っ直ぐにコーチの目を見つめた。
「私、変わりたいんです。このままでは杏子の二番煎じでしかなくて、結局は杏子を支えきれないことに気がついたんです」
その言葉に、拓哉コーチの表情がわずかに変わった。
言葉には現れなかったが、栞代が斜面打ち起こしへ射型を変えたいと言っていることはすぐにわかった。
今光田高校の全員が行っている正面打ち起こしは、現在の高校弓道界での標準の射型。
この礼射系と言われる正面打ち起こしに対し、武射系といわれる斜面打ち起こし、という射型も、古典的な、戦場で発達した、伝統的なものと言える。
だが、心技体、真善美を追求するという、礼節を重んじる現代高校弓道では、異端扱いされているのも事実だ。
一つのデメリットとして、指導者が少ない、という面もあるが、実は拓哉コーチも、自らの本来の射型はこちらで、その心配は無かった。
去年まで杏子とダブルエースだったつぐみも、この射型だし、今高校女子弓道界の頂点ともいえる雲類鷲麗霞、そして篠宮かぐやも、武射系の、斜面打ち起こしだ。
栞代が憧れるのも無理はない。
正面打ち起こしは、射法八節の標準的な射型であり、多くの学校で採用される一般的な射型だ。その見本が杏子で、栞代も杏子に習い、弓を初めてからずっと、その射型で研鑽を積んできた。対する斜面打ち起こしは、より実戦的で、武道の側面が強いとされる射型だ。実は自由度だ高いのは武射系だが、自由だからこそ、自らの射型を固めるのは難しい。経験者である拓哉コーチは、その難しさを知っている。
拓哉コーチは、すぐに答えず、じっと栞代の目を見つめた。その眼差しは、栞代の心の奥底を見透かすかのようだった。
「なるほど……。そうか。栞代、お前がその決断に至ったこと、まず、その勇気を褒めたい」
部員に対して基本的に「さん」付けで呼ぶコーチが、例外的に呼び捨てにするのが栞代だった。
拓哉コーチの言葉に、栞代ははっとした。射型の変更という技術的な話ではなく、その背景にある栞代の決意を、コーチは瞬時に理解してくれたのだ。拓哉コーチ自身、元々は斜面打ち起こしを主とする武射系の射手だ。だからこそ、栞代の選択が、どれほど大きな意味を持つか、痛いほど分かっていたのだろう。
「射型の変更は、並大抵のことじゃない。特に初めての染み付いた体の動きを、根本から変えるんだ。弓道において、一度身についた型を変えることは、真っ白な状態から始めるよりも難しい。特に、お前のように一度完璧な射を身につけた者にとっては、な」
コーチの言葉は穏やかだが、その重みが栞代の心臓に響く。
「それは、並々ならぬ覚悟がいることだ。…栞代、お前には、その覚悟があるのか?」
拓哉コーチの問いに、栞代は迷いなく答えた。その声は、震えることなく、静かだが強い響きを持っていた。
「はい」
栞代は、深呼吸をして言葉を続けた。
「オレ、今まで杏子に憧れて、杏子の弓を真似てきました。それは、私にとっての強さだった。でも、それだけじゃ、足りないって分かったんです。あの、決勝戦で……オレには、杏子を本当に支える力が、まだ足りなかった。杏子は、杏子自身の弓で、私たちを信じて、あの場に立っていた。だから、私も、私自身の弓を見つけたい。杏子のコピーを脱して、私自身の射を追求することでしか、本当に杏子を支える力を手に入れることはできない、そう思ったんです。そして、杏子を越えなければ本当には支えられない。
杏子を超えたいんです」
栞代の言葉は、まるで彼女の心の内をそのまま映し出すかのようだった。杏子を越えることが、杏子を支えること。その矛盾したような、しかし深く理解できる言葉に、拓哉コーチは静かに目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開くと、その瞳には、温かい光が宿っていた。
「そうか。栞代の覚悟は分かった」
拓哉コーチは、力強く頷いた。
「杏子という光を目指しながらも、自分自身の道を切り拓こうとするその姿勢を、私は全力で応援する。もちろん、栞代の新しい弓道を、私が全力で協力しよう」
その言葉に、栞代の瞳が潤んだ。葛藤と不安が、コーチの温かい言葉によって、少しずつ溶けていくのを感じた。
「それにな、実は私も、斜面打ち起こしから正面、そしてまた斜面に変更した経験がある。こんな優秀なコーチは、そうそう居ないぞ」
拓哉コーチは、にやりと笑う。
「最初にこれは言っておくが、正面打ち起こしは、基本全部同じだ。だからこそ、杏子さんの凄さがあるんだが。斜面打ち起こしは、身体の使い方としては、こちらの方が楽、つまり自由度が高い。自由があるからこそ、難しい。
たぶん、最初は的中率はかなり落ちるだろう。というか、乱高下すると思う。
焦るなよ、栞代。
焦らずじっくりと進むんだ。
体格があり、体幹も強い。必ず杏子を越える力を手に入れることができる。気も強いしな」
いつも冷静でクールなコーチが、すこし興奮しているようだった。
栞代は、深く頭を下げた。部室の窓から差し込む夕陽が、彼女の決意を包み込むように、静かに床を照らしていた。
杏子に言わなきゃな。
杏子はなんて言うだろう。




