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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
2年生
254/433

第254話 一華の弓

午後の陽が傾き始めた頃、弓道場には緩やかな静けさが戻っていた。

自主練習が終わって、みんなが弓具を片付けるなか、一華は今日も一人、ノートパソコンに向かい、今日の練習記録を丹念に打ち込んでいた。


 そして杏子の的中率を大きく画面に出していた。紬の射のブレ幅、今日の気温11-7℃度、湿度52%、そして風速7.9メートル(強風)、風向き:北西(NW)。この北西風は日本海側からの強風)──全部、書き留める。無駄な数字なんて、ひとつもない。


全国大会決勝でのあの瞬間が、脳裏から離れない。

競射という名の延長戦、的を外した一本の矢。

たった一本の差。

いや、的中率にして、わずか3.7%の差が勝敗を分けたのだ。


『この紙一重の差を埋めるのが、私の役目だ』


 「……じゃ、行ってくるわ」

一華は誰に言うでもなく、小さくつぶやき、決意を新たに、そっとパソコンを閉じ、抱きしめた。


コーチの拓哉は、部室の鍵を閉めようとしていた。二十代半ばすぎの彼は、部員たちからは「先生」ではなく「コーチ」と呼ばれている。インカレ連覇の実績を持つ彼だが、指導は常にクールで、部員たちの自主性を尊重するタイプだ。

 やはり若いだけに、生徒たちとの距離も近く、そこが強みであり、悩みの種でもあった。


「コーチ、少しお時間よろしいでしょうか」


振り向くと、一華がまっすぐな瞳で立っていた。その胸には、いつも持ち歩いているノートパソコン。


「一華さんか。どうした?」


「はい。大会が終わってから、ずっと考えていたことがあります。今度の大会で、私たちは紙一枚の差で敗れました。的中率にしてわずか3.7%です。その差を埋めるために、マネージャーとして、もっとできることがあるんじゃないかと思うんです。

杏子部長は宇宙人なのでもう勝手にしてって感じなんですけど。今回選手として出場した、栞代さん、紬さんを始め、部員全員が、最大の努力をして挑みました。ここからは、その僅か3.7%とはいえ、上達するのは、並大抵じゃありません」


拓哉は、まさに自分が、どうすれば彼女たちを、もう十二分に努力し続けている彼女たちを、まだ見ぬ景色に連れて行けるのか、考えていたところだった。


「これ、ここ最近の練習データです。気象条件や、選手別の的中率、テンポ、射法の崩れの傾向……。昨日の試合の結果は、それまでの練習とリンクさせています」


拓哉は受け取ると、ノートバソコンの画面をめくりながら、穏やかに言った。

「うん。相変わらず、細かいね。助かってるよ。一華さんのサポートで、特に一年生はかなり上達した。特に楓さんははっきりと数字で現れてるね」


 「いえ、正直、楓は、部長に近づきたいという気持ちが的中率アップに大きく影響したと思います」


拓哉は、一華の真剣な眼差しに、ただならぬ決意を感じ取った。


「けれど、その杏子部長は細かくわたしの記録をチェックして確認してくれました。そこから楓へのアドバイスも考えてくれました。

その時、もっと部長がアドバイスするための情報を増やしたい、と思ったことが契機になったんです」


拓哉は、静かに頷きながら、一華の言葉を一つひとつ噛みしめるように受け止めていた。


「わたし、もっと、役に立ちたいんです。紙一重を、3.7%の差を、埋めたいんです」

 拓哉が顔を上げた。

 一華の表情は、いつもの理知的で冷静な、部員たちから冷酷とまで言われる口調ではなかった。強く、まっすぐで、燃えていた。


「弓道は、感覚の競技だと言われます。けれど、データと理論からの分析に、もっと頼ってもいいと思うんです。私は、そのデータと理論を、より深く追求したいんです」


一華はパソコンを開き、画面を拓哉に向ける。そこには、今日の練習データがグラフと数値でびっしりと並んでいた。


「今のデータじゃ足りません。今回、あの紙一重を埋められなかったのは、わたしのせ帰任です。分析が浅かった。もっと背中を押せたはずなんです」


 「いや、一華さんのせいじゃ──」

 「そうじゃなくて」一華は言葉をかぶせた。「もっと突き詰めたいんです。射の癖、気持ちのブレ、環境要因……みんなが気づけないものを、全部数値にして、見えるようにしたい」


「これまでは、手作業での記録が中心でしたが、それでは限界があります。射手のフォームを正確に把握するための高速度カメラ、重心移動を可視化するフォースプレート、弦音や弓の振動を分析する音響解析装置…これらを導入したいと考えています」


一華の言葉は淀みなく、素晴らしいプレゼンテーションだ。その計画性、説得力には、拓哉も驚きを隠せなかった。クールなコーチにわずかな動揺が走ったのは珍しい。


「…本気か」

「はい。本気です。この紙一枚を、なんとしても乗り越えたいんです」


 「……最初、必要最低限なものは何になる? 予算的な問題もある」

 一華は迷わず答える。


 「ハイスピードカメラ。スマホでモーション解析。心拍モニター。温度湿度光量計。揃えようと思えば、最低限なら30万以内におさまります。親に頼るか、バイトして揃えます」


 拓哉はしばらく黙っていた。

 部員の自主性は尊重する。それが彼の方針だ。しかし、予算の問題が関わってくれば、それだけではすまない。


「……すごいな」 ぽつりと言って、拓哉は苦笑した。

「正直、そこまで考えてるとは思ってなかったよ」


一華は少し照れたように目を伏せる。が、決意は崩さなかった。


「できることは、全部やりたいんです」


拓哉はうなずいた。

「わかった。……ただ、ちょっと時間をくれ。

今、光田高校のメンタルトレーニングを受け持っている、深澤居るだろ? あいつも弓道に科学を持ち込めないかずっと考えているんだ」


 「……!」


「本気でやる気があるなら、こっちも全力で協力するよ。一華さんが、そういう道を切り拓いてくれるなら、部としても誇りに思う」


一華は一礼した。いつものクールな表情のままだったが、その頬がほんのり赤く染まっていることに、拓哉は気づいた。一華の情熱が、新たな可能性の扉を開く予感を感じていた。


「ありがとうございます。──必ず、役に立ちます」


扉の外に出た一華は、胸の奥で、ちいさくガッツポーズをした。コーチはその場を適当な言葉で誤魔化すような人ではない。そのことは、分かっていた。


大会の時、最終日にメンバーに渡した分析と数値。あの数値、実は操作した。分析からでた結果は僅かに鳳城高校が有利だった。


積み上げてきた数値は、すべて鳳城高校の優位を示していた。的中パターン、単純な的中率だけじゃない、状況による的中率——そこに、目視による引き尺、大配の変化、すべてを数値化し、論理的に、冷徹に、導き出されていた。しかし、一華は、同時に、弓道とは、そんな単純な数式では解けない方程式なのだということも知っている。

だから、その最後の勇気を与えたかった。

その僅かな差は、自信を持ってもらうことで埋まるかもしれない。気持ちは、いくら科学が進んでも数値化できない最後の聖域だ。


それでも届かなかった3.7%。


それは一華が計算した差よりも、確かに縮まってはいた。


だから、もっと練習から徹底的に取り組みたい。そして、分析だけじゃなく、的中率そのものを引き上げる手伝いをしたい。


伝統という名の巨大な壁に、自らが持ち込んだデータという小さな楔を打ち込み続けてきた。「弓道にデータなど不要」という古い声に抗いながら、それでも弓道の神秘性に対する敬意を失わずにいる自分の矛盾を、一華は受け入れていた。


データは冷たい。だが、その数値の向こうに息づく選手たちの想いは、どんな分析よりも熱い。特に、杏子部長の——あの宇宙人を解析したい。。


杏子部長の、あの水のように穏やかでありながら芯の通った射。栞代さんの、全身で信頼を表現する献身的な姿勢。紬さんの、一歩引いたところから全体を見渡す冷静な眼差し。彼女たちには、数値では測れない何かが確かに宿っている。


その「何か」を解明することこそが、自分の真の野望なのかもしれない。ある意味世間を知らない若者だけが持てる特権。

それは、弓道界に革命を起こす——ということ。単にデータを持ち込むことではなく、最終的にはデータと精神性を融合させた新たな境地を切り拓くことなのだから。


一華の微笑みが、わずかに深くなった。


 光田高校アナリスト・(いちじく)一華──誕生の瞬間だった。

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