第252話 始動
弓道場に、冬の冷たい空気が漂っていた。
昨日、あれだけ熱かった歓声も拍手も、まるで夢の中の出来事のように遠く感じる。
光田高校弓道部の朝は、いつも通りに始まっていた。
「準優勝、おめでとっ!」
弓道場に入った瞬間、男子部員たちの声が飛ぶ。
声を張っているのに、少し照れくさそうなその表情が可笑しい。
杏子は、少しだけ頬を赤らめて、小さく「ありがとう」と返す。
隣に居た栞代は。軽く会釈しながらも、心の内では少し揺れていた。最後の射で的を外してしまったことが、思いのほか自分を苛んでいる。
体力、精神力が続かず、技術的に足りなかった今までの結果とは違い、大会を通じて不調から立ち直り、そして確かなものを掴んだと思った試合だった。
そして今までとは違う自信を掴み、それが僅かに行き過ぎ過信になった。その気持ちの流れが、いろんなことを考えさせていた。
悔しさがじわりと胸に広がる。そんな自分を認めつつも、「もっと強くなりたい」との思いが膨らんでいる。そして、そのためにはどうすればいいのか。どうするべきなのか。ぼんやりと思うところはあったが、その一歩を踏み出す勇気が、まだ少し出せずにいた。
紬はというと、いつものように無表情で、黙々と弓の準備を進めている。状況に左右されない、まわりに流されない、ということが紬の強みであったが、その冷静さの裏には常に自分自身との静かな戦いがあった。
距離を詰めることへの恐れがあった。自分を守るために、紬はその感情を表に出さず、一歩引いたところで自分を守っていた。
今まではそれで良かった。その距離が自分の居場所だった。けれど今のままでは届かない場所があった。
今まではそのことに対しても、特に思うことも無かった。
けれど。届かなかった紙一重の距離を、今、乗り越えたいと思っていた。そのために必要な少しの勇気が、必要だった。
あかねも、まゆも、光田高校弓道部の最高の姿が、それでも届かなかったことに、複雑な思いを拭いきれなかった。
「じゃ、はじめよっか。」
全員揃ったことを確認し、ストレッチが始まる。杏子のいつもと変わらぬ声に、周囲の空気がすこしだけ動いた。
杏子はどう思っているのかな。
初めて万全な体制で挑戦した夢への思い。
まるでいつもと変わらない。
今日の練習も、大会直前の追い込みから、平常の練習の雰囲気に戻ってる。
そんないつもの雰囲気を、真映が一人でちらかすこともまた、いつものことだった。
「ちょっと待って! 大会の翌日に通常練習!? おかしいやん!」
真映が唐突に叫んだ。
「うち、試合出てへんけど、応援で体力使い果たしてんで! 声もカラッカラやし!今日ぐらい、のんびりやろうよ~、部長~。遊びたい~。花の女子高生がクリスマス犠牲にしたのに~」
すかさず、あかねが突っ込む。
「あんた、弓道の応援は声だしたらあかんねん。いつ声出ててん。なにがカラッカラや。それ、応援ちゃうやん。焼肉パーティーで叫び倒してただけやろ!」
「いや、焼肉も集中力が必要なスポーツやから…ちゃんとそこでは優勝したし・・・」
杏子は横で聞きながら、真映、優勝したんだあ、と呑気な感想を抱いていた。
「どんなスポーツやねん。どこで優劣決めんねんっ。どーせあんたが勝手に言うてるだけやろ」
あかねが呆れる。
きっと、かぐやさんと詩織さんと、またやりあったんだろうなあ。
「冴子部長呼ぼか?」
そればかりは、と真映も大人しくなる。冴子が特別厳しい訳ではないが、完全放任の杏子に比べたら、やはり厳しいという刷り込みがあるのだろう。
それでも、場は笑いで緩みつつ、すぐにいつも通りの空気に戻っていく。
基礎練習はまだしも、的前に杏子が立つと、とたんに道場の空気が変わる。
構えに迷いがない。淡々と、呼吸を整え放たれる一本。
その姿に、部員は圧倒され、立ち上がる。
「……いつもほんま綺麗やなあ」
と、ぽつりと楓が言った。
その言葉に導かれるように、一年生たちも自然と手を止め、杏子の立ち姿に見入った。静けさの中に凛と澄んだ気配が満ちる。
やがて誰からともなく、弓に向き直り、背筋を正す。
――あんなふうに射ちたい。
その思いが波のように広がり、いつしか全員の動きが引き締まりはじめる。
笑い声は収まり、矢をつがえる手つきさえ丁寧になる。教えられたこと一つ一つを反芻し、目の前の一射に全力を注ごうと、無言のうちに気合がみなぎっていった。
2年生も例外ではない。
ただ、弓を引く理由はそれぞれ違う。
悔しさのため。誇りのため。勝利のため。あの笑顔を守るため。
どんな理由であろうとも、引くという行為は、全員を一つにする。
そしてその中心には、やはり、杏子の背中があった。
静かな音を立てて、矢が的に突き刺さる。そのひとつひとつが、言葉にならない決意の現れでもあった。
杏子は何も言わない。言葉がなくとも、その姿勢で道場の空気を変えていく。
誰もが敗北の痛みを胸に刻みながらも、今はただ、目の前の一矢に集中する。その沈黙の奥底に、頂きを目指す覚悟が潜んでいることを、全員が共有していた。
ひとつの的に矢が重なるたびに、静寂はさらに深まる。そこにあるのは、言葉を超えた絆と、確かな未来への決意だった。




