第251話 サプライズ・クリスマス
焼肉パーティーが終わる頃には、冬の空気が深く染み込んできていた。
ソフィアは、光田高校のメンバーに笑顔で手を振りながら別れを告げた。
焼肉店での賑やかな宴から帰り道、ソフィアは心の中で今日の出来事を反芻していた。的場ナディアとの会話。言葉の壁を越え、互いの文化の違いを笑い飛ばしたあの瞬間。的場ナディアは、ロシア人と日本人の両親のもと、ロシアで生まれ育った。
国家として見れば、フィンランドとロシアはちょっとややこしい。
けれど──
国どうしの溝が深くとも、個人の心は互いを理解し、友情を育むことができるのだということを、ソフィアはこの夜、実感していた。焼肉のテーブルで笑い合った彼女たちの間には、そんなものは一切なかった。
日本語が少しおぼつかないナディアが、「こっちはクツぬぐの、最初こわかったよ〜」と笑えば、ソフィアは「こっちは真冬でもアイスクリーム食べるよ」と返す。小さな驚きの連続が、まるで会話の中に雪が降るように柔らかく積もっていった。
「友情に国籍はない──」
なんて、ナディアが言っていた。
ちょっと格好つけすぎだったけど、なんだか、その通りな気がして、ソフィアは口元を緩めた。それにナディアは日本で辛い目にあったそうだし。その点、ほんとにわたしはラッキーだったな。
そうしてまたひとつ、今日の思い出を心にしまい込む。
このあたたかな焼肉の匂いと一緒に。
ソフィアの瞳に、的場ナディアの明るい笑顔が浮かんだ。あの言葉のやりとりは、国と国の対立の陰に埋もれた無数の「理解と友情」の一つの証だった。
それが「日本の弓」で繋がったことを少し不思議に感じた。いつか杏子に話したい、とソフィアは思った。杏子が居なければ、今日の時間は無かったのだから。
そういえば、杏子と麗霞さんの、あの静かで、しかし確かな心の通い合い。焼肉の香ばしい匂いがまだ髪に残り、頬は熱気を帯びている。
「みんなで一つの場所を囲みながら、わいわいと食べるのは初めて」
ソフィアの心は自然と高鳴り、目の前の鉄板がまるでその場の楽しさの中心に見えた。言葉の壁も、文化の違いも、この熱気と笑い声の前では小さくなっていく。
「みんながそれぞれのペースで焼いて、食べる。だけど、誰もが同じ時間を共有しているんだ」
その実感が彼女の心にじんわりと広がる。国と国の関係がどんなに複雑でも、こうして人と人は繋がりあい、友情を育めるのだという確かな証だった。
鉄板の周りの笑い声が、ソフィアの心の壁を一つずつ溶かしてくれる気がした。新しい世界に触れた喜びと安心感に包まれながら、彼女は小さな幸せを胸に刻んでいた。
誰にともなく呟きながら、ソフィアはエリックとリーサ、祖父母が暮らす家の玄関のドアを開けた。いつも通りの、静かで温かい光が漏れるリビング。だが、その光景は、ソフィアの記憶にあるものとは、どこか違っていた。
リビングの奥から、聞き慣れた、しかし遠い場所にあるはずの声が聞こえてくる。
「Welcome back!! Sofia!」
聞き間違えようのない、父ヨハンの声だ。ソフィアの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「Hyvää iltaa!!(こんばんはー!)」
「びっくりしたー? Surprise!!」
リビングに足を踏み入れた瞬間、ソフィアの目は、その光景に釘付けになった。ソファには、父ヨハンと母ミーナが座り、その足元には、見慣れた毛並みの犬がしっぽを振っている。ピルッカだ。さらに、その隣には、無口な厨二病を拗らせた弟のラウリがスマホをいじりながらもこちらを見ていて、そして、一番手前には、姉LOVE強めな妹のアンナが目を爛々と輝かせ、今にも飛びついてきそうな姿勢で座っていた。
"Isä! Äiti! Lauri! Anna! Pirkka!"
ソフィアの口から、フィンランド語の歓声が漏れる。まさか、いるはずのない家族が、目の前に。選抜大会が終わった明日、26日に来ると聞いていたのに。ソフィアの頭の中は一瞬真っ白になり、次の瞬間、雪崩のような感情が押し寄せてきた。
アンナが、一番にソフィアめがけて猛ダッシュしてきた。小さな体が、勢いよくソフィアにぶつかる。
「"Siskooo! Mä oon kaivannu sua ihan hirveesti!"(お姉ちゃん!会いたかったよー!)」
ぎゅう、と抱きしめられ、ソフィアの目から涙が溢れた。温かい、家族の匂い。アンナの小さな頭を撫でながら、ソフィアはミーナとヨハンに視線を向けた。
「"Miksi te kaikki olette täällä...?"(みんな、どうして……?)」
ソフィアの問いに、ヨハンがにこやかに答えた。
「サプライズだよ、ソフィア!クリスマスを一緒に過ごしたかったからね」
ミーナも立ち上がり、ソフィアを優しく抱きしめる。
「あなたが、あんなに日本で頑張っていると聞いて。私たちも、あなたの応援をしたかったのよ」
エリックとリーサが、嬉しそうに微笑んでいる。このサプライズは、祖父母も一枚噛んでいたのだ。
ラウリは相変わらず無口だったが、その表情には、はっきりと安堵と喜びの色が浮かんでいる。そして、ピルッカはソフィアの足元で、嬉しそうに鼻を鳴らし、体を擦り付けてきた。フィンランドを発ってから、ソフィアと離れて少し痩せたように見えたピルッカの姿に、ソフィアの胸は切なくなった。
「ねぇお姉ちゃん、日本のアニメ、すっごい面白い!この前ね、『魔法少女キラキラ☆ユメちゃん』っていうアニメを見たんだけどね、もう最高なの!」
アンナが矢継ぎ早に話し始める。ソフィアは、その止まらないマシンガントークに、懐かしさと、くすぐったい喜びを感じていた。
ヨハンが、ソフィアの弓道着のバッグに目をやった。
「ソフィア、全国大会、どうだったんだい?試合には出場しないとは聞いていたが」
その言葉に、ソフィアは笑顔で頷いた。
「うん、パパ!最高の試合だったよ。残念ながら優勝はできなかったけど、でも、本当に……」
ソフィアは言葉を選びながら、今日の試合と、そこで感じた杏子の「絆の弓」について語り始めた。ヨハンは、娘の成長を感じ取るように、真剣な眼差しで耳を傾けていた。
ミーナはキッチンの方を指差した。
「ソフィア、夕食は食べてくるって聞いてたけど、いくらでも食べていいのよ。ほら」
テーブルには、フィンランドの家庭料理と、日本の食材を融合させたような、見慣れないが美味しそうな料理が並べられていた。その香りだけで、ソフィアの気持ちは頂点に達する。
「本当に……みんな、ありがとう」
白い息が小さく揺れ、遠くの空に光田高校の弓道場の屋根が見える。
あの場所で感じた歓声、矢音、杏子の背中――すべてが彼女をここへ導いた。そして今、愛しい家族が同じ景色を眺めている。
「ねえ、みんな。明日、道場を案内してもいい?」
ソフィアの声に、家族は一斉に顔を上げる。
「もちろんだとも。」ヨハンが満足げに答え、アンナはなにかを決意したように言った。「杏子に言いたいことがあるっ」
ラウリは小さく頷き、「……弓、やってみたい」とつぶやく。
エリックが冗談めかして言った。「その前に、ピルッカも袴を着る修行が必要だな」
「ワフッ?」首をかしげる犬に、一同が笑いの渦を巻く
この夜、ソフィアの家では、フィンランド語と日本語が入り混じったにぎやかなクリスマスが幕を開けた。
ピルッカはずっとソフィアの足元にいて、トナカイ柄のセーターを着せられ、しっぽをぶんぶん振っている。モフモフ。信じられないような顔で見つめるソフィアの手をぺろっと舐める。
ソフィアの瞳から、再び温かい涙が溢れ落ちた。異国の地で、日本の弓道に魅せられ、仲間たちと熱い日々を送る中で、忘れかけていた故郷の温かさ。それは、最高のクリスマスプレゼントだった。




