第246話 夏のはじまり
「……決めた!」
杏子の矢が、星的の真ん中を割った瞬間、光田高校の応援席に柔らかな息がもれた。そして会場全体からも、安堵の空気が流れる。
外せば敗退が決まるプレッシャー、そんなものはまるで届かなかったように寸分の狂いもなく的の中心を射抜く。
あまりにいつもと変わらないその姿に、光田高校弓道部のメンバーは、一瞬呆れ、可笑しくもなった。
――練習かよ。
冴子は、入部当初、3年生から因縁を付けられて、初めて弓を引いた杏子の姿を思い出していた。
変わらないな。
沙月と視線を交わす。
――これで、並んだ。
――あとは・・・・・・。
だが次は鳳城高校、いや、現在高校女子弓道界のエース、公式戦で矢を外したことがない雲類鷲麗霞。
彼女が弓を構えた瞬間、会場全体の空気が、ねじれた。
「外せ」という無数の思いが飛び交っているのが、皮膚でわかる。
だが光田高校のメンバーは、ただ見つめていた。
――相手の失敗を願うことは、弓を引く者の誇りに反する。
分かっている。
相手の失敗を願うことは、これまで積み上げてきた自らの勝利を汚すこと。
でも、当てろなんて願えるわけがない。ただ、見守る。
祈ることもできず、願うこともできず、ただ麗霞の姿を、その一挙手一投足を、息をひそめて見つめていた。
そして、受け取るだけ。それしかできない。
麗霞が放つ。
凛とした弦音が、会場を貫いた。
そして、矢は、真を射抜いた。
「……っ!」
鳳城高校の応援席から、拍手と歓声が起こる。だがすぐに、光田高校も、会場のすべての人々も拍手を重ねた。それは、勝者を称える拍手であり、これ以上ない最高の勝負を見せてくれた両校への敬意を示す拍手だった。光田高校の応援席からも、惜しみない拍手が送られる。
最高の試合は、最高の敗者が創る。
だが、その瞬間、まるで弾かれたように立ち上がり、その拍手を背に、一目散に会場を出て行く姿があった。真映だ。
「真映!」
「……っ、あああああっ!」
彼女は両手で顔を覆い、通路を駆け抜けていく。
「真映!」
一華、楓、つばめ。一年生が揃って後を追いかける。じゃないことに気がついている。
真映はトイレの個室に飛び込んでいた。
すすり泣く声が響く。閉じこもった個室のドアの中からは、嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「ちくしょう、ちくしょう」
抑えきれない悔しさが混じった声。
楓はドアに寄りかかり、その声を聞きながら、自分も声を殺して泣いていた。
「……くそっ……くそぉっ……みんなあんなに頑張ったのに……神様なんていねぇよ……こっちには宇宙人がいたのに……あっちにもいたぁっ……!」
泣きじゃくる声に、真映らしい声も混ざる。
ドアの外で立ち尽くす三人。
つばめは、涙を溜めながらも、真映に聞こえるように努めて明るい声を出した。
「真映、全力でやったんだから、仕方ないよ。胸を張って、堂々としようよ!」
一華は、ただ静かにメガネの奥で目を閉じた。
――紙一重の勝負だった。その薄皮一枚、必ずわたしが破る。夏の団体戦は五人制。杏子部長は心配いらない。麗霞さんに負けてない。つまり、問題は残る四人、わたしが必ず的中率を上げてみせる。
楓とつばめ、そして個室から聞こえる真映の泣き声を聞きながら、一華は固く拳を握りしめた。
真映の泣き叫ぶ声に、楓は嗚咽を漏らし、つばめは放心状態で立ち尽くす。一華は、この状況すらもデータとして脳内に刻みつけるように、ただ冷静に耳を傾けていた。
その時、トイレの個室のドアが、バタンと力強く開いた。
真映が飛び出してきた。
真っ赤に泣きはらした目をしながらも、にっこりと笑顔を見せる。
歯を見せて笑っている。
「よし! 楓! つばめ! 一華! 焼肉食い放題行くでっ! そんで、明日はテーマパークやっ!」
真映の唐突な言葉に、三人はあっけにとられた。まだ涙を流し続けている楓が「え?」と声を漏らす。真映の頬に涙の跡はくっきりと残っていたが、もう目は乾いていた。
「……え?」楓が涙を拭いきれない顔で固まる。
「焼肉は、優勝した時とちゃうの?」つばめがつぶやく。
「わたしらが今できることは、杏子部長、栞代先輩、紬先輩を勇気付けることや。もう勝負は終わった。次の総体優勝祝勝会を先取りすんねん!」
真映の笑顔に、三人は呆れ、そして泣き笑いした。
――切り替え早っ。
――いや、ほんまは自分が行きたいだけちゃうんかい。
三人は心の中で突っ込みながらも、その勢いに救われていた。
「ほら、行くとこ決めなあかんやろ? こういうの部長のおじいちゃんの専門や!相談にいくでっ」
そう言うが早いか、真映は三人を置き去りにして観客席へ戻っていった。
杏子の祖父は、座席で顔を覆っていた。
――最&高の試合だった。
杏子がこの大舞台で放った矢、そこにすべてがあった。
決して負けた悔しさだけじゃない、誇りと愛しさが混じった涙だった。
祖母がそっとタオルを差し出す。
隣では瑠月が、背中を優しくさすっていた。瑠月の瞳も潤んでいる。
ソフィア、あかね、まゆ、そして冴子や沙月までが集まり、それぞれ目を赤くしていた。祖父を囲んで心配そうに見守る。
そこへ真映が割り込んできた。
「おじいちゃん! 泣いてる場合ちゃうでっ! 決起大会や! 夏の優勝祝賀パーティーやで! 焼肉食い放題行こっ!」
「え、えぇ?」祖父は涙をぬぐいながら目を丸くする。
「おじいちゃんなら、美味しい店知っとるやろ? 食べ放題なら安いやろ? さぁ、はよ手配して~な。今日ぜったい混んでるで!」
あまりの勢いに、周囲が呆然とする。
でも――その場にいた誰もが、真映の切り替えに救われていた。
さすがに真映、どんだけ切り換え早いねん。ちょっとは悲しみに浸ることもいるで。
祖父はしばらく真映を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「……そや。さすがや、真映さん。ほな――行くで、焼肉」
顔を上げると、スマホを取り出し、知ってる店に予約を入れていた。
祖母と瑠月が目を合わせ、安心したように微笑む。
席の一角で、そんな笑いと涙が入り混じる温かい光景が広がっていた。




